■万年床と食器の洗い残しは同じだった | マウントされる女やめる大学

マウントされる女やめる大学

どんなに自己肯定感が低くても
熱量集中心理カウンセラー☆マリチャンヌ学長が
あなたの人生を文明開化!
人生の照明を当ててみせます!

 

 

💖大人の不登校どんとこい!
『マウントされる女やめる大学』
マリチャンヌ学長こと、もりわきまりこです。💖

 

 

わたしは現在、

いつかの『わたし』のボタンの

掛け違いからくる

心の誤解に気づき

 

 

 

心理カウンセリングというアプローチから

ゆるめてゆるす、そして未来を思い出す

お手伝いという

お仕事をさせていただいています。

 

 

 

ゆるむというのは

「だらだらもOK」とわたしは認識していますが

 

 

わたしには、それとも違う

微妙な癖がありました。

 

 

使った食器を「一度に全部洗わない」のです。

 

 

なぜか、ひとつふたつ残して

「ああ、終わった」と、終わりました感を出し

 

残りは次の洗い物が出たとき洗うのでした。

 

 

 

ずるずるしたループをわざとつくり

やりきった爽快感から遠ざける無意識の癖

 

 

終わらない課題が

いつまでもそこにある感じ・・

 

 

 

時々、もうそういうのやめよう!と

やりきることもありましたが

あまり続きませんでした。

 

 

 

茶碗ほどではないですが

以前のわたしは微妙に

万年床傾向もありました。

 

 

 

睡眠と日常の境目を作らず

切れ目なくだらだら引きずる感じが

好みではなく

 

 

こちらは強引に

片付けるようにはしていましたが

 

 

やはり億劫というよりは

茶碗の洗いかたと

深い部分に巣食っている

心理状態は似ていて

 

 

 

「何かを終わらせたくない思いから

来ているありきだろうな」

 

 

・・というところまでは

なんとなく自覚はありました。

 

 

 

しかし、ある日唐突に

『この二つ、同じルーツじゃないか!?』

共通項があることに気がついたのです。

 

 

 

 

 

「万年床と食器の洗いかたは同じだった」の話

 

 

よろしければ最後までお付き合いください。

 

 


 

 

万年床は回避しているとはいえ

 

布団をあげる行為のやらされている感は

払拭されるわけでもなく

 

 

一体どこからこの受け身の不快感が

来ているのだろう?と

ある日セルフワークをしました。

 

 

 

すると

 

「やりきることは辛くなること」という

意外な気持ちが出てきたのです。

 

 

 

「達成すると、その先がない」

 

「目の前の現実が意識に入ってくる。

それを見たくない」

 

 

 

 

「その現実(いまここ)はとても辛いもの」という

思い込み。

 

 

達成された世界が

安心快適ではないなんて・・・・

 

 

 

 

わたしがあえて

未完の状態を好んでいたのは

 

 

物事がうまく行かない状態が

わたしというひとの通常モードだ、という

ずれた思い込みがあったから

なのでした。

 

 

 

 

そして

『達成しないことで見たい世界があった』のです。

 

 

ずれてはいますが、今思うと

それをすることで

 

 

わたしがわたしを守ってやろうとした

親心のような思いもあったのです。

 

 

 

わたしは気づきました。

 

 

『達成しないことで、

その穴を埋めていく作業をしたかった』

 

 

 

 

ちっとも楽しくなんかなかったけどね・・・

 

 

 

 

コロン、と

 

 

憐れみではなく

いたわりのような

 

 

「かわいそうに・・・」という思いが

胸に滲みました。

 

 

 

わたしは

ねこのあたまを撫でるような

 

 

なんだかとっても

わたしにやさしくしてあげたい・・

 

 

そんな気持ちでいっぱいになりました。

 

 

 

 

うまくいかないことが当たり前だ、と

思い込んでしまうほど

 

 

ハードル設定高め、

できるできないの世界の住人の思考を

 

相当大昔から、無自覚で

強くモデリングをしていたようです。

 

 

 

 

うまくいくわたしもそこにいてよいのです。

 

 

スムーズにことが運ぶことも

確率としては

二分の一なのにねーー

 

 

うまくいって

いい気持ちになってゆったり溺れることは

 

 

必ずしも努力というルートから

登りきらなければ手にしてはいけない、

なんてルール

 

どこにもない。

 

 

自分だけが楽をしたり

シード権を得ることがあっても別にいいのに

 

 

誰かの目を気にして

うまくいかない人生の子供を演じながら

 

他者に許可を乞う、という

お伺いを立ててきたのでした。

 

 

 

さらに深い部分には

「お母さんかわいそう」・・がありました。

 

 

 

そんな一方的な決めつけを自分の中に作り

未完で放り投げるという罪を作り

 

欠けを埋めるという罰を

生み出していたのです

 

単独コントです!

 

 

・お母さんと同じような苦労をしなければならない。

・お母さんより楽に幸せになってはいけない。

 

 

それによってわたしは

一番大事なものをないがしろにしてきたのです。

 

 

そしてその先にある世界を

知りもしないのに「ない」と断定して生きてきたのでした。

 

 

 

 

3年前、母に聞いてみたことがあります。

 

 

「お母さんは働くことって苦しい?」

 

・・って。

 

 

 

間髪入れず

 

「からだがよく動くうちなら、

世話(=仕事の方言)を焼くことは大好き!

働くこと大好き!!」

 

 

幼少期からの思い込みを壊す、意外な答えが返ってきました。

 

 

『おいおい、かわいそうじゃないじゃないか・・・』

 

 

 

幸福であっていいんです

さらに幸福でもいい

 

 

なにが自分にとって幸福か?

 

それ自体も皆違う。

 

 

 

わたしがわたしのしあわせを

受けとることを許可をしよう

 

何が好き?

何が嫌い?

 

何がしたい?

何をやめたいのにやってた?

 

 

自分に手をかけてあげよう

 

望みをなるべく叶えてあげよう

 

 

きっと、それだけのこと。

 

 

 

そしてそこから見える世界で

今以降、好きに生きればいい。

 

 

 

今日もわたしは無洗米

 

昼過ぎまで寝てることも多いですが

 

 

罪悪感なく楽して

かわいいお部屋で

美味しいご飯を食べています。

 

 

あなたもそんな世界に来ませんか??

よかったらご登録ください*