■言えない時、水戸黄門ごっこに走っていた | マウントされる女やめる大学

マウントされる女やめる大学

どんなに自己肯定感が低くても
熱量集中心理カウンセラー☆マリチャンヌ学長が
あなたの人生を文明開化!
人生の照明を当ててみせます!

 

「こうあるべきだ、強め」から

「そんな自分をゆるしてお金持ち*」

 

 

優雅な星へ導く

お手伝い心理カウンセラー・

マリチャンヌです。

 

 

 

わたしは現在

心理カウンセリングを通して

心の混線を一緒にほぐす、お手伝いという

お仕事をさせていただいています。

 

 

 

 

 

「言いたいことを言ってやったわ!」

 

と鼻息荒めで、ドヤ顔。

 

 

 

場所を変えても

揉め事は、常に起こり

 

 

起こっては、自分の正義のビームで悪を倒す・・

 

起こっては、正義のビームで悪を倒す・・

 

 

そんなひと、周りにいませんでしたか?

 

 

わたしはこのようなタイプの方と

よく出会った時期があります。

 

 

 

皆違う人なのに

出来事の展開がとてもよく似ていて

さらに詳しく話を聞いてみると

 

 

そのひとそのひとが

「深い部分で求めているもの」と、

 

「揉め事の中身そのものも、なぜか似通っている」

ことに気がつきました。

 

 

おそらく無自覚なのだろうとは思いますが

 

 

起承転結の4コママンガのように

 

 

自身の正義のビームで謝罪や、

権利を取り返すために

揉め事をまず「起こす」。

 

 

そのためには

あえて自分の立場が悪くなるように

物事を展開させておく必要があります。

 

 

そしてオセロ盤の色が

相手優勢になりかけたところで

バーーン!とひっくり返す。

 

「ドヤア!」水戸黄門!

 

 

してやったり・・恍惚。

 

 

 

 

 

「ああ・・これは

やりたくってやっているんだなぁ」

 

 

そのひとたち満足気でしたしね。

 

 

 

ただ、わたしも

彼らみたいだった時期あったなぁーーと

感じたのはホントです。

 

 

「言ってやったわあ!」と

正義の仮面をかぶって高らかに

吠えていました。

 

 

一時的であれ、どうしても

自分にも悪役が必要だったからです。

 

 

そしてその理由が、正体が

心から理解できた時

悪役を作る意味がなくなりました。

 

 

怒りの向こうにあるものが

見えたのでしょうか?

 

 

 

 

そこで今日は

 

「さよなら、当たり屋稼業」

 

について書いていきたいと思います。

 

 

 

少しの間お付き合いくださいね。

 

 

 

 

 わたしのおうちの話をすると

 

うちの父は、お酒を飲んでいる時

顔を合わせれば

 

「あいつが悪いこいつが悪い」という

他人の悪口をやたら言う人でした。

 

 

 子供の頃のわたしはお母さんの味方。

 

 

しかしそんな父を蔑む母もまた

たくさんの不満と、

不足ばかり口にする癖がある人でした。

 

 

 

いま思えば、父母それぞれ

受け身の生き方しか経験値がなかったので

 

 

「自分を認めて欲しい!」のゆがんだ形として

「自分は絶対正しい」が

生まれたのかもしれませんね。

 

 

 

『暴君、には、服従する者が必要』

 

 

子供のわたしが

「わたしはこう思う」と

「ぽっと浮かんだ気持ち」を伝えると

 

ことごとく「わがまま」と返されてきました。

 

 

両親同様、

子供も大人も人間である以上

ひとりひとり価値観があり

 

「個」だからこそ、尊重しあえる

 

思いやり・いたわりの心を家庭で学ぶ、

気づく、という経験がないまま

 

 

わたしは大人になり

 

暴君の面が出来上がっていました。

 

 

 

そうなると、細かい不満

不都合、受け入れがたいネガティブ感情が

出るたび

 

全部、他人にかぶせるんですよ。

 

 

「くそう、友達め〜!

あの子のせいで

今日はむしゃくしゃするなあ・・

 

あ、ハゲたおじさんの通行人がいる。

 

全てはあいつのせいだ!」

 

 

・・やっていることは、当たり屋です。

 

 

今でいう適応障害から、不登校になりましたが

(心身症と当時は言われました)

 

わたしという人個人に関しては

そういう素地はありました。

 

 

 

当たり屋のわたしは

当てるものがなくなると

 

 

偏った視点で見えるものだけを

集めまくり

自分の気を狂わせてでも

「自分を責めること」をやっていきました。

 

 

 

30代になっても

顔だけ笑って

腹の中ではこれをやっていました。

 

 

「誰かを責めないとやってられない」

 

 

稀に、他者との境界線が爽やかに引けている

素敵な人に出会うことも

ありましたが

嫌われるように自分から仕向けて行く始末!

 

 

さすがに、この自動反応には疑問が出て

 

「どうして過去を

今にかぶせてしまうのだろう

やめられないのだろう・・」

 

 

一生この面は直らないかもしれない

 

 

自分の癖に泣きそうになりました 。

 

 

 

 

これがいわゆる『投影』というもので

それをやり続けていただけ、と

気づくのは、もう少し先のこと。

 

 

当時はまだまだ、当たり屋稼業しか

生き延びる方法が浮かばなかったのです。

 

 

苦しい時期でした。

 

 

 

 

4年前、心理カウンセリングの

勉強をするようになり

 

 

やっとここから、

からくりが少しずつですが

見えるようになってきました。

 

 

そして、自分をもっと濃くした人

薄めた人などと知り合う機会があり

 

 

わたし同様、問題をつくって

ひとりSMをしているひとが

たくさんいることも知りました。

 

 

他人事は主観が入りにくいぶん

図星は見えやすいものです。

 

 

 

「あ!なんだ

みんな、言いたいことを

本当に言いたい人に言い切るのが

こわいだけじゃんか・・・」

 

 

 

 

そして

 

「あーー・・やだなぁ・・

わたしも じゃないか・・・」

 

 

図星ってイヤだなぁ

 

 

 

でも、おんなじです。

 

苦々しさごと全部受け止めました。

 

 

 

わたしもバンジージャンプをするために

 

ここまで大ごとのセットを組まないと

飛ぶ覚悟が出来なかったのです。

 

 

 

 

そして後天的ですが

男女性のワークをやりつづけ、

 

 

ある日、はたと

そのつながりに気づきました。

 

 

自分とつながることで

他人を悪役にしなくても

安心して生きていけるのだ

 

 

と。

 

 

 

そして、

 

「素直に気持ちを伝えること」は

「相手にわかってほしい」とは

 

まったく別のこと。

 

 

 

それが肚落ちした時

 

 

勇気と場数は要りましたが

 

 

 

えいや!っと

 

肚の声を相手に伝えることが

できるようになってきました。

 

 

 

言えれば

癒える!

 

 

 

ドヤ顔をやることを

あえてやった方がいいケースの話

 

向き合ったから気づけてよかったことなど

メルマガ(無料)に書いていますので

よかったらご登録くださいね*

 ↓    ↓    ↓

メルマガ登録はこちらへ