今回はちょっと難しくもあり、だけど絶対に知っておきたいと思う哲学的なテーマについて書きたいと思います。それは「一即多・多即一」という概念です。大川隆法総裁先生が『太陽の法』第4章6節で、このテーマに深く言及していますので、その内容を中心にお伝えしますね。

1. 人間と霊:成長の過程と認識の限界

 太陽の法』第4章6節においては、正思・正進・正念・正定が、最大限に深まった段階、愛の発展段階でいえば、存在の愛の段階にいたった場合の「悟り」について述べられています。つまり、如来界の悟りとは何かというテーマです。


 人間の魂は、本来形のないエネルギー体であり、知性でもあります。しかし、何度も転生を繰り返してきた結果、人間としての形にしばられることが多いと言います。つまり、私たちは霊的な存在でありながら、人間としての姿や形に依存してしまっているのです。

2. 如来界の自己認識:形なき知性あるエネルギー体 私達は光の存在です|Makoto 

 大川総裁先生は、この認識の限界が如来界にはないと指摘しています。如来界の人々は、自分たちが形のない霊魂であることをしっかりと理解しています。形や姿を持たない光の束、知性あるエネルギー体であるという認識が、生活実感としてもあります。なお、地上にいる霊能者が如来界に行った場合、そこではダイヤモンドやルビーで飾られた素晴らしい世界が展開されるようです。しかし、これは地上の人々がわかりやすいように、三次元的に翻訳された世界なのだと説明されています。

3. 「一即多・多即一」:如来界の不思議な法則

 そして、如来の悟りにおいて最も核心的なものが、「一即多・多即一」という悟りです。この悟りでは、「一」という概念が客観的には存在しません。例えば、一人の如来が10の仕事をするとき、その一人は10人となって表れます。そしてその10人も、一つの統一された意識で認識されるのです。この法則は、数学的にも哲学的にも非常に深いものがあります。日本の哲学者西田幾多郎も、このような法則について気づいていたとされています。

西田幾多郎の「善の研究」と幸福の科学の基本教学「幸福の原理」を対比する / 幸福の科学出版公式サイト さん

 「一即多・多即一」という法則は、まさに非常に深く、理解するのは簡単ではありません。でも、この概念が示しているのは、すべての事象や存在が繋がっているという普遍的な真理です。私たちも日常生活の中で、このような不思議な繋がりを感じる瞬間があるのではないでしょうか。

皆さん、「観自在」という言葉、聞いたことがありますか?実はこれ、非常に高度なスピリチュアルな境地を示す言葉なんです。今回は大川隆法総裁先生の文献から学んだ「観自在」について、詳しくお話ししましょう。(参考文献:『太陽の法』第4章5節)

 1.「 如心」の進化と「観自在」

大川隆法総裁先生によれば、如心とは霊界の秘義に通じた菩薩の心境であり、如来界へも通じるものがあるそうです。この如心にも段階があり、通常、阿羅漢の上の如心というと、菩薩の境地を意味します。この菩薩の境地がさらに進化していくと「観自在」という境地に達するのです。

 観自在菩薩とは、人の名前ではありません。修行が進んで、観自在となった菩薩の境地のことを意味します。

 このように、「観自在」は非常に高い霊的境地であり、地上界では、菩薩界と如来界の中間、七次元とも八次元ともいえる霊域に達した魂のことをいうのです。

 

2. 「観自在」の予知能力

 観自在の境地に達した霊たちは、未来の出来事を「予知」する能力を持っています。しかし、しかし、大川隆法総裁先生は、予知が外れる場合、2つの理由があることを示されています。


 その理由は二点あります。第一点は、将来起きることにも、確定的事件と流動的事件があるからです。確定的事件とは、高級霊界において、決定ずみのことで、これは、よほどのことがないかぎりくつがえすことが不可能です。しかし、流動的事件とは、このままでいけばこうなるであろうという予測的な段階にしかすぎません。ですから、これは、地上人の努力や、守護・指導霊たちの努力によって変更することが可能です。つまりは、天上界の霊の予言もはずれることがあるということになります。
 第二の理由は、天上界の諸霊の意識の段階差と、得意・不得意の分野によって、予言の精確さに、程度の差が出てくるからです。一般的にいえば、霊格が高ければ高いほど、予知がよくあたるのはもちろんです。予知を専門の職業としている霊もいるほどで、やはり専門家のほうがあたる確率が高いといえます。


 この2つの理解があるために、観自在菩薩は非常に高度な「予知」能力を持っていますが、それでも100%正確とは言えません。

 

 3. 六大神通力と観自在
観自在力 / 幸福の科学出版公式サイト
 観自在菩薩は、六大神通力を持っているとされています。これには、天眼、天耳、他心、宿命、神足、漏尽の6つが含まれます。

①天眼とは、いわゆる霊視能力のことです。生きている人間のオーラや憑依霊はもちろんのこと、あの世の世界、実在界までを透視する力があります。
②天耳とは、あの世の霊たちの声を聞くことができる能力です。霊言能力なども、これにあたります。
③他心とは、いわゆる読心のことです。マインド・リーディング、つまり、人の気持ちが手にとるように理解できる能力です。
④宿命とは、単に自分の将来がわかるだけでなく、その人の想念帯を読みとれば、他人の運命、宿命が手にとるようにわかる能力です。もちろん、過去世のことまでわかってしまいます。
⑤神足とは、いわゆる幽体離脱のことで、肉体を地上においたまま、霊界を見聞したり、テレポーテーションしたりする能力のことです。
⑥漏尽とは、「心の欲する所に従って、矩を喩えず」と喝破した孔子の境地で、欲望に振り回されず、それを自由に超越する能力です。たとえ霊能力をもったとしても、たんねんに心の錆び落としを続ける精進能力です。


 このような能力が身につくことで、観自在菩薩は非常に高いスピリチュアルな境地に達しているのです。すなわち、「観自在」とは非常に高い霊的境地を示す言葉であり、多くの神通力と深い理解力を持っています。このような境地に達すると、未来を予知する力や高度な霊的能力が身につきますが、それでも100%の確定性はないというのが非常に興味深いですね。

 今回は「如心」の悟りという深遠なテーマについてお話しします。私たちが日常で心を磨く中で目指すべき最終的な心の境地、それが「如心」です。このテーマについては大川隆法総裁先生が『太陽の法』第4章4節より様々に教えてくださっています。今回はその教えを元に、「如心」がどういったものなのか、その奥深さに迫ってみたいと思います。

 1. 阿羅漢の境地とその限界

 大川隆法総裁先生によれば、阿羅漢の境地は「仏への確固とした信仰が根づき、この世的な波風に動じない不動心ができ、守護霊の指導を受けて、日々生活をし、そのなかで接する他人の気持ちが見すかすようにわかる段階」です。それは人間として、宗教人としても高い境地だとされています。

 しかしこの阿羅漢の境地には限界があります。大川総裁先生は「阿羅漢の段階とは、まだ、一通りの反省がすんで自分自身の潜在意識層にいる守護霊と交流可能な境地だということにすぎず、光の菩薩たちの心までは十分にわかっていないからです。」と教えています。

 2. 悟りが錆びつかないためには?


 阿羅漢の境地にいると、「心が錆びてきているにもかかわらず、そのことに気がつかないで、自分を『大先生』だと思って悟りすましていると、たいへんなことになってしまいます。」と大川総裁先生は警告しています。

 心の「」がつかないようにするためには、心を常に磨き、防腐剤や錆どめを塗っておくことが大切です。「心に錆というデコボコをつくっておくと、いつなんどき、悪魔がザイルのついたハーケンを打ち込んでくるかわかりません。」と総裁先生は教えています。

 3. 如心の境地とその特徴
本当は怖い仏像の種類と見方・祀り方の間違い・起源と意味
 大川隆法総裁先生によると、阿羅漢よりもさらに高い境地が「如心」です。「如心とは、自らの守護霊以上の霊格をもつ高級霊界の指導を受けられる段階、すなわち、指導霊と霊的交流ができる段階です。」この境地になると、日々の心の中心が「どうすれば世の中の役に立てるか、どうすれば迷える人々を救えるか」といったことに移ってきます。

 「この如心の段階になってくると、心はいつも謙虚で、高ぶることなく、他人に対する奉仕、すなわち、どうすれば世の中の役に立てるか、どうすれば迷える人々を救えるかといったことが、日々、心に去来することの中心となってきます。」と大川隆法総裁先生は述べられています。


4. 如心の更なる奥深さ
観自在菩薩 お釈迦様の変化身 | 高野山真言宗紫雲寺(北九州市八幡西区)
 「如心には、もうひとつの面があります。つまり、観自在に近づいてくると居ながらにして、何百キロも離れている人のことが手にとるようにわかるということです。」と大川隆法総裁先生が述べられています。この段階に到達すると、更に多くの人々を救い、幸せに導くことができるようになります。

 まとめると、「如心」とは究極の心の境地であり、この境地に達することで、更に多くの人々を救い、世界に貢献することができるとされています。大川隆法総裁先生の教えに従い、この境地に達するためには日々の研鑚と修行が不可欠です。ぜひ、一緒に如心の境地を目指し、更なる心の磨きを行っていきましょう!