実は、詩歌を作る人(歌人や詩人、または俳人)に対しては憧れがありながら、どこかで釈然としない気持ちを抱いてきました。
何が良い作品で何がそうでないのか?
分かりやすいジャンルもありますが、今の私にはまったく理解不能なジャンルもあります。抽象画や前衛音楽がそれです。
「文芸」とやらいうものでは、俳句がそうです。
だから、私は不真面目な十七音をつらねてしまうのかな・・・。
文芸全般、いや芸術全般に対する私の素養のなさの為せることなのでしょう。
それに、これは、実は単純なことでは?
つまり、自分が「美しい」と思うその直感(直観などでなく)に正直でありたいというだけなのです。
ただまあ、それって、加齢によってますます醜くなる自分を顧みるにつけ、せめて自分の環境には「美しいもの」を置きたいというありがちな「収集癖」(無形のものも含めて)なのかもしれません。
無季題自由律の俳句に出会い、「なんだよ、これもありなの?」と思ったのは、大学院に進んでからです。
なんといっても、種田山頭火。
「まっすぐな道でさみしい」って・・・これって俳句?
「咳をしてもひとり」は、尾崎放哉だったんですね。
しかし、山頭火の句をいくつか眺めているうちに、何とも言えず「ホッとしている」自分に気づきました。
世を捨て、酒と旅に生きた俳人。
ある脱俗趣味の友人はけっこうはまっていました。
私はそこまでいきませんが、だんだん好きになっていきました。
しかし、それでも・・・
第二次大戦直後、いまや有名な「第二芸術論」論争が起こりました。
フランス文学の研究者で評論家の桑原武夫氏は、1946年11月号の雑誌『世界』に「第二芸術―現代俳句について」を発表しました。
俳句の「良し悪し」の違い、大家の作品と素人のそれとの差はどこにあるのか。
そもそも、区別がつくのか。
桑原論文は、この点を鋭く突きました。
俳句は、そもそも「芸術」なのか?
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文中にそれらを掲げ、大家の句といえども、「文芸作品」としての体をなしていないものをこき下ろします。
確かに、私にもわけのわからないものがいくつかあります。
高浜虚子の
「防風のここ迄砂の埋もれしと」
は、多少「わけはわかる」けど、「どこがいいのか」が分かりません。
(「暴風の」だったら、もっとわけがわかります。でも、それって、「月並」?)
虚子は、自分の句がやり玉に挙がっているのに、何ら「反論」しませんでした。
桑原論文で前提になっている「芸術」は西洋起源の観念です。
そこには、「作者」という主体の存在と、その「個性」が前提になっています。
読者という「他者」との「感動の共有」、読者の内部での作者の「経験の再生産」が芸術の必須要素として挙げられます。
これらが芸術の(定義とまでは言わないにしても)必須要素であるならば、それらを「基準」にして評価すればいいのでは?
小説(Roman)には小説の、戯作には戯作の「歴史」があるように、俳句にも歴史があります。
実は、桑原論文では「現代俳句」はくさしていますが、それ以前の「近世俳句」にはほとんど言及していません。
松尾芭蕉は批判していません。
むしろ、芭蕉を、また正岡子規を「越える」ことのできなかった同時代の俳句を批判しているのです。
句作とその鑑賞にはそれ独自の歴史があります。
それが、「封建的」で「権威的」で「密室的」なのは確かですが、その「趣味世界」はそれなりに面白いです。
山本健吉氏は、「滑稽」「挨拶」「即興」を俳句の要素として挙げています(『俳句とは何か』だったかな?)。
つまり、日常なのです。
だから、私は、自分の日常において感動を共有できる句を評価します。
ホメロスやダンテやゲーテとは違います。
桑原氏が挙げた句のうち、
「4.粥腹のおぼつかなしや花の山」(日野草城)
「15.柿干して今日の独り居雲もなし」(水原秋桜子)
なんてのは、いいと思うんですけどね。
私は、自虐的なのが趣味なのかもしれません。
ただ、それでも、俳句と短歌が、というより俳人や歌人が「密室的」なのは好きになれません。
弟子が多いとか、有名俳人の子息とか、大きな句会や俳誌の中心者だとか・・・
そんな作品とは違う事柄で「評価」が決まるなどと言うのは、やはり不合理です。
坂口安吾が、「第二芸術論について」(坂口安吾全集5)という短い文章でコメントしたように、問題なのは音数や詩形ではなく、「詩魂」なのです。
どうして「専門の」俳人や歌人などという括りがあるのでしょうか。
どうも、先にそうした括りがあるのが安吾氏は気に入らないようです。
詩魂の赴くところ、たまたま十七音だか三十一音だかで表現しているというならいいのですが。
それなら、長歌や旋頭歌ばかり作る人がもっといてもいいのにな・・・。
青空文庫の「第二芸術について」(坂口安吾)
名人・プロ・天才にコンプレックスを持つ私には、素人が作って素人が楽しむ「限界芸術」(鶴見俊輔)がぴったりくるのです。
島崎藤村の若菜集の扉にこうありました。
「こころなきうたのしらべは
ひとふさのぶだうのごとし
なさけあるてにつまれて
あたたかきさけとなるらむ」
今の私は、「なさけあるて」を求めてさまよう身かもしれません。
「詩(あたたかきさけ)」とはついにならずとも。
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ボストン/ハーヴァード日記より(2011/3/21)ハーヴァード調査初日
ボストンに俳句協会があります。
世界中に「俳句協会」があるようです。
ボストン俳句協会(Boston Haiku Society)

