かつて、近代以前は、群衆は恐怖や政策の対象ではあっても、まともな学問の対象ではありませんでした。エリートや学者にしてみたら、目の前に大勢わけのわからない連中がいて、こいつらをどうしてやろうか・・・てなところでしょう。
(Rene Magritte, the Golconde )
しかし、近代化が進むにつれ、群衆の存在が理論的な対象になってきました。単に恐がられたり、排除されたり、動員されたりする存在ではなく、それ自体が能動的に動くまとまった存在に思えてきたからです。その原因は、やはり民主化にあります。普通選挙は大衆民主主義の時代をもたらしました。群衆は政治の主役になり得るのです。
ここまでなら、昔からよく言われている「大衆(Mass)」論です。大衆という言葉には、昔からどこか侮蔑的な響きがあります。「みんな同じで程度が低い」とか。上流人士やエリートたちが上から見下しているような。
しかし、最近はいくぶん事情が違っています。「エリート対大衆」というかつての図式はそれほど重要ではなくなっています。もちろん、エリートというものがなくなったわけではありません。
つまりは、こういうことです。大衆のなかに、かつてのエリート連中が感じた群衆恐怖が生まれているのです。駅や街頭やサッカースタジアムに、そしてマスメディアやネットの向こう側に、数えきれないくらいの人々がいます。私たちは、自分も群衆の一員のくせに、ある瞬間自分と「彼ら」を区別します。「なんだ、こいつらは」と思うのです。
そうした、「群衆体験」は、ネットの世界で際だっています。顔が見えないから、なおさらです。「彼ら」は、単に匿名というだけではありません。個々の同一性すら曖昧なのです。2チャンネルの「一人ニ役」「一人数役」みたいに、「個人」が分裂している可能性もあるのです。もちろん、性別も年齢も不確かですし。
これは、ITの普及による新しいタイプの群衆と言えるでしょう。こうした新たな「ネット群衆」または「ネット群衆体験」こそ、旧来の「大衆社会」との大きな違いです。大衆の投票行動とは異なり、ネット群衆は「意見」を表明し、多くの物事について選択し、様々な痕跡を残していきます。
東浩紀さんは、こうした「ネット群衆」の存在に未来の民主主義の可能性を見ています。「一般意志 2.0」がそれです。
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しかし、だからと言って、何でも「ネットリサーチ」でやればいいってものではありません。
ネットアンケートは要注意です。
母集団が不明で、サンプリングというものになりにくいです。
ネットリサーチではないですが、データの信頼性について「反面教師」例がひとつ。
三浦展(みうらあつし)さんの『下流社会―新たな階層社会の出現』は大変に売れた本ですし、かなり面白い本です。その主張には「確かにそうだよなあ」と思えるところも多いのですが、でも、データが・・・。
- 下流社会 新たな階層集団の出現 (光文社新書)/三浦 展

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ここでは詳しく述べませんが(もうかなり長いブログになっている)、母集団が曖昧なうえに(大都市圏のアンケートサイト登録者?)、サンプル数も少な過ぎます。
それで、「団塊ジュニア」とかって「全国レヴェル」のような話をされても・・・。
三浦さんの「直感」や「直観」は正しいかもしれません。三浦さん自身も、「これは、仮説です」と述べています。しかし、というかだからこそ、検証が必要です。自分でも少々アンケート調査をしたことのある身としては、「誰かお金のある人(団体)が、ちゃんと追試してよ」と思ってしまいます。
ただ、すべてはこれからです。
「ネット群衆」は、社会学者にとって、もしかしたら「宝の山」かもしれませんよ。
(どこか、研究費ちょうだい!)
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