読み歩き、食べ歩き、一人歩き(145) オキュパイ運動と脱(反)原発 | DrOgriのブログ

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おやじが暇にまかせて勝手なことを書くブログです。日々の雑記や感想にすぎません。ちらっとでものぞいてくだされば幸せです。

ウォール街占拠の運動は、私のような社会学者崩れにとっても様々に興味深い特徴があります。
群衆が運動として「自己組織化」をとげていく過程がこうしたヴィデオでも伺えます。
それは、特殊な「直接民主制」と言えるでしょう。




大勢が集まって議論し決定するには、「プロセス」が必要です。
時間はかかるけれど、納得するまで話しあう。
時には、時間を決めて少人数のグループに分かれて話し合ってもいます。
人間スピーカーとジェスチュアによる意思表示などが面白かったです。

「政治的社会化」や「政治文化」という概念によって、政治学と社会学と心理学が共同作業をしてきました。
政治は「社会化」(心理)と「文化」(生活様式)という日常のなかで変化が育まれるのです。
そこにおいてこそ、政治は「機能分化したシステム」ではなく、人間の世界になります。

革命的な「群衆」は、完全に非日常的な怪異ではありません。
確かに「革命」や「カリスマ」は非日常かもしれません。
しかし、いつかは日常化します。
なぜなら、日常は私たちのなかに常に存在するからです。


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日本の「脱原発」「反原発」は、こうした日常と非日常を「往還」する政治的社会化という契機をどのくらい持っているのでしょうか。
作家やアーティストや学者が「聴衆」に語るという形ではむしろなく、市民が会合でもっともっと発言すべきです。
群衆が運動へと進むには、聴衆がスピーカーへと変化していくことが必要ではないでしょうか。
私たちは、「言葉」をもたなくてはいけません。

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「言葉」といえば、面白い本を見つけました。
『脱原発「異論」』(市田良彦ほか、作品社2011年11月)は、肯定的な面もいくつかあります。
反資本主義や反権力に対する議論の「蓄積」は必要でしょう。
「反原発」と「脱原発」の仕分けも必要かもしれません。

しかし、この本には、私にとってはですが、どうも「違和感」があります。
それは、本書の著者たち多くの「言葉」に感じます。
難しすぎるのです。
私が無知で愚かだから?
そうかもしれません。
でも、単語があまりに抽象的(または寓意的)で、文体(語り)が難渋すぎます。
センテンスが長すぎるのです。
出てくる「思い出」が古すぎるのです。
(反スタって・・・(^-^;))
そして、「原発」に対する「体感」が貧困なのです。
長大な「基調報告」でも言ってますね。
「どうなるかわからない」、と。
福島に行ってみたらいかがでしょうか、「現闘」だとか言っているわけですから。


東京などの対原発「叛乱」は「議論」を蓄積していない?
30年の間、原発の言説を「蓄積してこなかった」のは誰でしょう。
理論だか思想だかの「蓄積」って誰がどこでやるんですかね。
でも、著者たちのような「先生方」には頼まない方がいいかもしれませんね。

68年流新左翼メタファーも含めて、この種の「文芸評論」的「私語」がまだ生き残っていたんですね。
(できれば、おタバコ姿は写さない方が・・・)