読み歩き、食べ歩き、一人歩き(112) 大乗は釈迦と無関係? | DrOgriのブログ

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おやじが暇にまかせて勝手なことを書くブログです。日々の雑記や感想にすぎません。ちらっとでものぞいてくだされば幸せです。

108回目の「読み歩き」の話題がキリスト教だったことで、「ん?」と思った読者がいたようです。
煩悩の数(108)と同じだから仏教が話題かと思った・・・
へえ、そうかそういう見方もあるのか・・・

それで仏教ネタというわけに。
不謹慎なおやじですね。

私は自分のことを仏教徒(Buddhist)と言ってます。
特に外国の人にはそれをけっこう強調して自己紹介したりします。

でも、日本でもそうですが、海外での仏教および仏教徒のイメージは実に多様です。
そもそも、依拠している「経典」がかなり違っています。

日本は大乗の国と言われてきました。
しかし、そもそも大乗とは?
それ以前に、仏教とは?

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そんな根本問題をここで論じるなんてできはしません。

でも、以前から気になっていたことがひとつ。
それは、「大乗非仏説」論です。

仏教の教祖は言わずとしれた釈迦(シャーカムーニ、ゴータマ・シッダルタ)ですが、死後に「仏典結集」が何回かおこなわれています。
そもそも、我々が現在目にしている「経典」は彼が語った言葉そのものではないとされています。

それに加えて、今日「大乗経典」と呼ばれているものは、部派仏教に対抗して起こった一種の改革運動をとおして「成立した」テクストです。
大乗=マーハヤーナ(大きな乗り物)=出家者だけでなく多くの人々を救済する。
小乗=ヒーナヤーナ(小さな乗り物)=出家者など限られた人々が悟りを得る。
 こうした区分は、もちろん大乗の側からのラベリングです。
 大乗の方が釈迦の本意に近くて優れているという前提があります。
 小乗は自利の法門だというわけです。

そうした「大乗主義」の自負と興隆にも関わらず、大乗テクストは釈迦の死後500年後に学者たちが「捏造した」というものだという議論が現れました。

日本では富永忠基(1715-1746)が当時としては合理的な疑義を大乗テクストの成立について発しています。
普寂(1707-1781)など仏教者のなかからも大乗への疑義が現れ、「釈尊復古」の動きが生まれます。
明治に入ると、村上専精(1851-1929)が大谷派の僧籍にありながら大乗非仏説を唱えます。

いったい、「仏説」とは何でしょう。
「仏説」が「釈迦説」だとするなら、大乗だけでなくほとんどの経典は仏説ではなくなります。
ただ、歴史的に実在した釈迦の言説ではなく、普遍的な真理を「仏説」というなら、話が違ってきます。
五時八教という天台の教判(教相判釈)も、釈迦一代の「時期区分」ではなく、時代を通じた仏教思想の体系的・理論的な整理として見ることもできるのでは。

聖書古文書学が発見した数々の『福音書』のように、大宗教の「聖典」は歴史のなかで「人類」が創造した偉大な「作品」なのかもしれません。
デュルケムが考えたように、人間の歴史社会こそが宗教の素顔なのかもしれませんね。

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