読み歩き、食べ歩き、一人歩き(108) クリスマスだし… | DrOgriのブログ

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おやじが暇にまかせて勝手なことを書くブログです。日々の雑記や感想にすぎません。ちらっとでものぞいてくだされば幸せです。

クリスチャンではない私も、キリスト教についてもっと勉強しなければと常常思っています。
西洋起源の社会科学を学んでいるのですから、当然といえば当然です。

しかし、キリスト教の歴史も思想も、そして信仰も、そうは簡単に理解できるようなものではありません。
高校時代に、遠藤周作さんの『イエスの生涯』や『沈黙』や『白い人・黄色い人』などを読み、漠然と「日本人とキリスト教」というテーマについて考えてみたことを覚えています。

私の場合、難しい「神学」は理解できないまでも、イエスとその弟子たちの人間ドラマにいたく感動したことを覚えています。

遠藤さんは、次のように言いました。
弟子たちは師イエスを裏切った。それほどに弱く、だらしない連中だった。

しかし、その弱い弟子たちが、いつからか、多分復活したイエスに遭遇してから、超人的な伝道を始めます。
少なくとも、新約聖書を見る限り、そうなっています。

おそらくは「弱い」からこそ、自分が師に比べて「だめな」人間だと自覚するからこそ、命をかけることができたのではないでしょうか。

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大学の講義でキリスト教関連の英文を選択して輪読しているうちに、最近の聖書古文書研究が大きく発展していることが分かってきました。

そのなかで私にとって最も衝撃的だったのは、『ユダの福音書』と呼ばれる古代コプト語文書の発見でした。

その翻訳書と発見までのドキュメントDVDがNational Geographicから刊行されています。

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『新約聖書』の4福音書(マタイ、ヨハネ、マルコ、ルカ)以外にも、多くの「福音書」と呼ばれる文書が伝えられていたそうです。
ユダの福音書は、古くから名前はよく知られていたようです。もちろん、「偽書」として。
研究者によれば、内容はいわゆる「セツ派グノーシス主義」の思想だそうです。
何のことやら門外漢にはさっぱりですが、少なくとも私たちが知っているキリスト教とはまったく異なった思想が語られています。

どう読んでも、「神」は絶対者ではありません。
神を「超えた」絶対者が語られます。

ユダは裏切ったのではなく、イエスに頼まれて、桎梏である肉体からイエスの魂を解放するのに貢献したのです。
「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう。」(『原典 ユダの福音書』、69頁) 

文書の保存状態が悲惨なため、会話が切れ切れですが、ユダは弟子のなかでも特別な存在として扱われています。
語られる「世界観」は、極めて難解で哲学的です。

紀元2-3?世紀の教父エイレナイオスは『ユダの福音書』に言及し偽書として排撃します(DVDから)。
彼によって最終的に正当化された4つの福音書では、イエスと弟子たちの物語が感動的に語られます。

無信仰かつ無学な者の勝手な想像ですが、仮に『ユダの福音書』のような神秘哲学ばかりが聖書の内容だったら、キリスト教はこれほどの発展をみたでしょうか。
迫害に苦しみ、それでも信仰を貫こうとする信者にとって、また「貫かせよう」とする教団指導者にとって、イエスと弟子たちの人間ドラマは大きな情緒的「後押し」(encouragement)になったのでしょう。

ただ、イエスの人間的な面で『ユダの福音書』は現在の『新約』とは違う魅力もあります。
それは、イエスがよく笑うことです。
そのことで思い出しました。
ウムベルト・エーコの『薔薇の名前』(映画版)で、ショーン・コーネリー扮するパスカヴィルのウィリアムがある学僧と論争します。
「アリストテレスの『喜劇論』は禁書とする。イエスが笑ったなどとは考えられない。笑ったとする記録がない。」
「でも、笑わなかったという記録もないのでしょう?」

研究や仮説は自由にさせるべきではないでしょうか。
DVDに収められているインタビューのなかで、「研究がどんなに破壊的な結果を出そうと、信仰そのものは決して傷つくことはない」という言葉が聞かれました。

宗教は神秘ですし、偉大です。

雑然たる私のクリスマスの食卓。
信仰心のなさが一目瞭然ですね。

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