小説を一番読んだのは、おそらく中学校のころです。
高校時代も読むには読みましたが、ほとんど「推理小説」でした。
大学時代は、今度はSFにはまりました。
どうも「純文学」(これって死語になりつつある?)にはあまり縁のない青春時代だったように思います。
そんな私にも、歴史小説の好きな友達がいます。
彼女の愛読書は『坂の上の雲』と『竜馬がゆく』(司馬遼太郎)
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坂本竜馬よりもむしろ新撰組にぞっこん(よくいる類ですね)。
・・・あの頃の「男たち」はかっこよかった。
それに比べて今どきの「男ども」は・・・。
んなこたあ言わせておけばいいのですが、気になったのは所謂「英雄史観」です。
司馬遼太郎がそうだというわけではありません。ただ、小説である限り、人物は魅力的に書かれています。読んでいるうちに、その人(人々)が歴史を動かしているように思えてきます。
確かに、人々が動かなければ歴史も動かないでしょう。
でも、もしかしたら歴史が人々を動かしているのかもしれません。
「歴史」という言葉を使うとき、自分なりに気をつけていることがあります。
それは、「存在」としての歴史と「認識」としての歴史とを混同しないということです。
上で述べた「動く」「動かす」というのは、「存在」としての歴史です。
「日本は長い歴史のある国だ」という場合の「歴史」です。
でも、書かれたものも「歴史」と言う場合があります。
大抵は我々は「存在としての歴史」を「書かれた歴史」から学びます。
よく、「歴史に"IF"(もしも)などない」と言われます。
E・H・カーの『歴史とは何か』に、「歴史上の未練を話題にして楽む」人々、つまり「・・・すればよかった」と言う人々を批判した記述が出てきます。
そこから、「過ぎ去った物事をそのまま記述する」という姿勢が生まれたと考えられます。
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完全に反復もできないし実験もできません。"IF"と言っても無意味です。
しかし、歴史学すなわち「認識としての歴史」にはむしろ"IF"が必要です。
ただし、それはカーが批判したような「願望」としてではなく、「科学」として行われるべきです。
マックス・ウェーバーは、まさに"IF"の人だったように思います。
実験はできないけれど、「思考実験」はできます。
所詮「すべて」を書くことはできません。
認識としての歴史は、一定の価値観によって選択され、一定の物理的・技術的な制約の下に書かれた「事実」から成っています。
そうした制約の上で、「この人がいなかったら」とか「この事件がなかったら」とか考えることは必要だと思うのです。
ただ、それは「消極的」な「原因」、つまり「必要条件」を探ることに過ぎません。
所詮は「確率論」(どうやって計算するの?)に過ぎないかな。
英雄も、独裁者も、歴史の因果的項目のひとつに過ぎません。
まあ、そんな理屈っぽいことを言っていると嫌われます。
「でも、やっぱりぃ、土方歳三はかっこいいしぃ」
ああ、そうですか。そうですね。