少しは「深い」勉強もしなければと思いますが、性格に問題があるのか、なかなか落ち着きません。
いわゆる「日本人論」とか「日本論」とかいう類はよく目にします。
「マクロ社会学」に「定性」研究があるとするなら、文化比較や文明比較は最も身近なもののひとつです。
有名なところでは、ルース・ベネディクトの『菊と刀』が思い浮かびます。
ただ、「定性」分析は、比較する相手と比較する論者のアイデンティティによってかなり違いが出てくるのではないでしょうか。
アメリカ人が日系アメリカ人を扱った『菊と刀』とは比較次元も比較する論者もかなり違う例に触れる機会がありました。
オイゲン・ヘリゲル(1884-1955)の『弓と禅』(Eugen Herrigel, Zen in der Kunst des Bogenschiessens, 1948)がそれです。
ヘリゲルはドイツ人の哲学者です。大正から昭和初期(1924-1929)にかけて日本に滞在して東北大学で講義する傍ら、日本の弓道を阿波研造(1880-1939)に師事しました。
弓道は、西洋のスポーツとも、また単なる戦闘技術とも異なった世界を築いています。そもそも、弓矢は火器の発達によって武器・兵器としては使命を終えたものです。
宗教的神秘主義から東洋の禅へと関心を移動させてきたヘリゲルは、日本の弓道に禅と通じる独特の精神世界を感じ取りました。
とはいえ、ドイツ人にとって、弓道の修行と言説は理解困難でした。
阿波師の教えは、我々現代の日本人にとっても難解です。
「全身の力を抜きなさい(gelockert)」「丹田で息をしなさい」
ヘリゲルにとって、こうしたことはとても物理的に不可能な動作に思えました。
「幼い子供が握って放すように、弦を放しなさい」「幼い子供は、少しも考えていません」。
この比喩を理解できないヘリゲルは、矢を的に当てるという「目的」のために弦を放すということは「手段」であると述べます。しかし、阿波師は言います。「正しい弓の道には目的も、意図もありませんぞ!」
目的、意図、意志のない行為などあるでしょうか。ドイツ人のみならず現代の日本人にとっても理解困難な言説です。
しかし、その後、ヘリゲルは確実に師匠の教えを理解していきました。
それは、「自分」や「私」というものから離れることでした。
「いったい、射というものはどうして放されることができましょうか。”私が”しなければ」とヘリゲルは質問します。
師匠の答え。「”それ”が射るのです」。わからないヘリゲルは、いったん考えるのをやめ、淡々と稽古に励みました。
ある日、師匠は一矢だけ見てこう言います。「今、”それ”が射ました。」
それは、「無心」「無我」の境地とでも言うものだったのでしょう。
ヘリゲルは、こう表現しています。
「それはあまりに単純なことです。・・・いったい弓を引くのは私でしょうか、それとも弓が私をいっぱいに引き絞るのでしょうか。的に当てるのは私でしょうか、それとも的が私に当たるのでしょうか。」
「弓と矢と的と私とが互いに内面的に絡みあっているので、もはや私はそれを分離することができません。のみならず、これを分離しようとする要求すら消え去ってしまいました。」
「一切があまりに明瞭で一義的であり、滑稽なほど単純になるのです。」
5年の修行を経て、ドイツ人ヘリゲルはこの境地に達しました。私のような凡人には理解困難ですが、「凄い」ということだけはわかります。
弓道や武道だけでなく、もしかしたら、あらゆる技術と芸術(つまり"art")に通じる境地なのかもしれません。
『菊と刀』は、有名な「罪」の文化(西洋)と「恥」の文化(日本)という分類軸を提案しました。
『弓と禅』は、社会学に対して何を教えてくれるのでしょうか。
まあ、それは、これからじっくり考えることにします。
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いわきの秋。10月なのに晩秋の風情です。
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