読み歩き、食べ歩き、一人歩き(61) 構造主義的文学? | DrOgriのブログ

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おやじが暇にまかせて勝手なことを書くブログです。日々の雑記や感想にすぎません。ちらっとでものぞいてくだされば幸せです。

「読書」というジャンルに属しているわりには、音楽ネタが多過ぎるという声を聞きました。

そうかもしれません。

たまには、ちゃんとした「感想文」くらい書けよとのことです。

ちゃんとしたものになるかどうか不安ですが、最近読了したなかで面白かったのを紹介します。

もっとも、既に本そのものは「読み歩き、食べ歩き、一人歩き(58)飲んでばかり in Osaka」で紹介しましたが、ページの途中でしたし、しかも本そのものの内容に触れず、「実存」と「構造」について勝手なまとめに終わってました。

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実存と構造 (集英社新書)/三田 誠広


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三田誠広さんの『実存と構造』(集英社)は、9月19日に大阪の天王寺で買いました。

たいへんわかりやすく、おもしろい本です。
著者の三田誠広さんは、芥川賞作家として有名な方ですが、現代思想にも造詣が深いです。

先週、それから来た台風のおかげ(?)で、中央線の動かない電車のなかで読み終わりました。

読んだ限りでは、この本のテーマは「実存の苦悩を癒す構造主義的(神話的?)文学」てことかと思います。

構造主義的文学?

これって要するに、自分一人の癒しがたい苦しみ(実存の苦悩)も、何代にもわたる長大な物語(神話、歴史)で反復されるOne of Themに過ぎないのだと悟らせる文学の名称ではないかと思います。

章立ては、プロローグ、第一章;実存という重荷を負って生きる、第二章;実存を包み込む国家という概念、第三章;隠された「構造」の発見、第四章;実存から構造へ―大江健三郎の場合、第五章;実存から構造へ―中上健次の場合、エピローグ。

本書は、順序としてまず「実存」について、また実存と文学について解説しています。

実存(existence)とは人間独特のあり方を示す言葉です。

道具には作成と使用の目的があります。この目的を「本質」とすると、人間にはそう意味の「本質」はあるのでしょうか。有限で無力だけど意志を持つ存在である人間は、いま、ここに、こうしてあることしかわかりません。したがって、一瞬一瞬未来に向かって選択し決断するしかない。それゆえ、「実存は本質に先立つ」と」言われるわけです。

文学作品での実存は、「不条理な状況」におかれた「孤独な魂」(本書20頁)といったイメージが多く登場します。

サルトルは人間を「自由に呪われた存在」「自由という罰に服している存在」といった表現をします。ぶっちゃけた言い方では、「なんだかんだ言って、それはお前が「選んだ」んだろう?」というわけです。

サルトルは、荒れ野で天使の声を聞いた人のたとえ話をしています。その声を天使の声と判断したのはおまえだ、というわけです。だから、「神のせいだとか社会のせいだとか、言い訳にはならないよ」ということになります。

三田さんは、その一方で重荷である実存にも「積極的」で「革新的」な面があると言います。革命に人生をかける生き方などがそうです。未来に何が待っているか分からないけど、とにかく新しい社会と人生が待っている。

しかし、未来に希望が持てた時代にはそうした「明るい」実存も可能だったでしょうが、いまはどうでしょう。

三田さんも、国家の存在が実存の肯定的な性格を危うくしたと述べています。社会主義の夢が崩壊したあとでは、サルトルのアンガージュマンはもはや魅力を持たないとのことです。

三田さんのお話は文学へと収斂していきますので、社会学の頭で固まっている私としては、実存と構造の関連付けに違和感がありました。

私の理解する「構造」は、以下のような事柄です。
  「主体性」とか言ってるけど、人間は文化や階級の「手の中で踊らされている」のさ。文法なんて知らなくても喋ってるだろう?無意識の構造がなければ考えることもできないぜ。

三田さんが構造主義的文学の代表としているガルシア・マルケスの『100年の孤独』や中上健次の『枯木灘』シリーズは、いわば「神話」に似た形式を持っています。これら長大な物語は、主役もクライマックスもはっきりしません。人物の状況がどんなに過酷でも、その内面がいかに孤独でも、それは物語のなかで反復される構造的(神話的)要素にすぎません。

確かに、私なども、歴史物語を読んだり、人の苦労話を聴いたり、雄大な自然に触れたりしたとき、自分が「なんて小さいのだろう」と思ったり、「なんてつまらないことで悩んでいたのだろう」と思うことがあります。客観的な状況がなんら変わらなくても、問題が具体的に解決したわけではなくとも、心のあり方が変わることで新しく出直すことができます。

しかし、逆さから見れば、いかに心がけが変わろうとも、客観的な状況は変わっていない。実存の苦悩が消滅したわけではない。本来それは、消滅するものではありません。

確かに、かつてはあまりにも社会主義革命とやらいう「希望」が喧伝された時期がありました。そもそも社会の変革は実存的苦悩を消すものではない。当時ですら、むしろ、その過程で自分を「賭ける」ことに意義が見出されてきたわけです。

構造主義的文学による「癒やし」には、私は懐疑的です。癒されないという意味ではありません。「いま、ここ」の状況を変化させることをせずに、神話の中に心の救いを求めるとすれば、それは権力にとってさぞ好都合でしょう。

かつて実存主義は一部「決断のロマン主義」として批判されました。三田さんのこうした考え方は、「構造主義のロマン主義化」ではないでしょうか。

三田さんによれば、実存と構造は「思考のモデル」であって、必ずしも対立するものではなく、むしろ「表裏」の関係にあるそうです。しかし、そうした言い方は、「構造」の「構造」たる所以を崩しています。

三田さんのお話では、読者の立場と作家の立場とが時折交差するときがあります。作家にとっても、構造主義化(神話化)は、癒やしでしょうか。三田さんも指摘していますが、成功した人気作家としての新たな実存の苦悩が始まるかもしれません。

三田さんの試みは、「構造」ないしは構造主義のロマン主義化による「活用」とでも表現できるかもしれません。それはそれなりに、面白いとは思います。

誤解や誤読があるかもしれません。
乞う、ご指南。


サルトルは本当に時代おくれなのか?
原題は、
「実存主義とは、ヒューマニズムである」
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社会学者である橋爪先生の本も、一度きちんと感想をまとめないと。
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