某NPOの研修より | driveroneのブログ

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某NPO主催の講義を聴きに行ってきた。

「難民」という言葉はよく耳にするけど、初めて生の声を聴くことができた。


カンボジアからタイに逃れ、今は日本人となった方の講義。

見た目も、日本語も、「あぁ、カンボジア人なんだな」という感じだけど、今は帰化とともに日本名を使っているそう。


カンボジアの概要の他、自らが難民としてやってきた体験を語っていたのを聴くと、いかに過酷だったかが生々しく伝わってきた。



ポルポト時代(1975~79年)が終わった後も混乱が続いてた同国、いつ殺されるかもわからない、未来もない、という中で祖国を捨てる決意をしたという。


「誰だって生まれ育った祖国を捨てたくはない。でもそうせざるを得なかった。」


しかし資源である国民の亡命を許すことはできない政府。怪しげな行動をとれば即逮捕。

そこで現地の盆(9・10月)の時期に合わせて都市から田舎へ移動。タイ国境に近付いたという。


亡命時、大きな荷物を持って移動することはできない。水はどう確保するか、どんな木の実や草が食べれるのか、いかに兵士や、金品を持った難民狙いの強盗に遭遇せずに進むかなど、サバイバルの知識がなければならなかったという。眠る時も順番に見張り。

更に国境付近には、亡命を阻止するため大量の地雷が埋められている。


29人の仲間のうち、最終的に亡命を果たしたのは7人だったという。


一番辛いのは仲間を助けられないこと。

地雷で片脚を吹き飛ばされた仲間。生きてはいても背負って移動することはできず置いていくしかない。

病気や、逮捕されていく仲間も、隠れて遠くから見ることしかできない。


そうしてようやくタイの難民キャンプに到着しても、その中は法律のない世界。物もない。そして何より未来がない。


その後、運良く日本に来られることになり、パスポート代わりの渡航証という片道切符で日本に来たという。


日本に来ても苦難は多かったという。何よりも日本語の壁。文字や助詞が難しく、またカンボジア人用の教材がないので「日本語→英語→タイ語→カンボジア語」という形で意味を調べていったんだとか。


中国・韓国や欧米系で日本語が上手い外国人は多いけれど、東南アジアの方々には独特な雰囲気があるのはそういうことだったのか。。。


また差別もある。こういう方々の為の一部の施設は、迫害運動から逃れるために一部住所を非公開としているらしい。



講師の方は大変な苦労の末に、今はアジア福祉教育財団の職員として働かれているそうだが、文字通り一歩間違えばカンボジアの地で消えていたかも知れない。

そんな方が自分の目の前で語っているというのは、数奇な運命なのかも知れないとも思えた。