高瀬隼子「おいしいごはんが食べられますように」(2022年)という単行本を読み終えた。最新の芥川賞受賞作。
日常のどこにでもあるような職場の人間関係を題材にした小説で、何気ない風景描写や会話の運び方が非常に上手いなぁと思う。
ごく普通で在り来たりの風景や場面設定なのに、面白く最後まで快適に読めるのである。
また、本のタイトル通り、食べ物を介しての人間描写も表現の中心となっている。
読み終え、面白かったのはとても良かったが、さて、著者は一体何を伝えたかったのだろう、言いたかったのだろう?
そこを考えても私にはよく分からなかった。そういう不思議な感覚を読者に与えることこそが、狙い??
全152ページと読み易い分量となっている。
本や小説なんぞ、実は大して特別なものではないのかも知れない。
一般に言われる「物語」とは、決して小説や映画だけの粗筋や事の流れのことを指すのではない。
広く自分の「人生」そのものの方が、巷の小説なんかよりも一貫していて、尚且つ、意味や内容のあるれっきとした「物語」であることに、これまで頭では朧げに理解していたが、漸く私は今となって感覚として理解出来た。
だから何というか、小説には完全で完璧な物語など存在する訳がなく、言ってしまえば、どんなに優れた世界の名作と言われる作品であっても、沢山の言葉の省略や、実際よりかは感情の希薄となる表現ばかりであって、中身はいわばスカスカ状態と言えるのである。
小説はスカスカであり、一方、一番密度の濃い物語は、個々の人生である。
だって、人生には境界が一切ないから。章や目次や段落もないし、空白すらない。人生という物語には、全てが常時ぎっしりと詰まっている。
文章とは、どんなに偉く有名な文豪たちの書く文章であっても、所詮はただの一語一語の文字が印字されている書きものであり、人生という、アナログで壮大な物語とは比較にならない。
しかも、誰の人生であっても、起きる出来事や心情の密度が濃いのだ。
この事実に深く気付くか気付かないかも、今後において、密な人生になるかならないかの分水嶺となる気がする。
自分としては、まるで文章至上主義みたいに、何か勘違いをしていたのだな、と深く思った。
勘違いを正しく矯正する為に、今日も書く。
そして人生とは恥。
今日の内容は恥ずかしい限り。