こんにちは、泰三です。
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『奇跡を起こして夢を叶える方法』
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今週からパラレルワールド3ヶ月マスターコースがはじまりました。
新たに20名近い仲間が加わりました。
僕らは伝える側ではあるけど、講師というより仲間という気持ちで関わらせてもらってます。
というのも、毎回マスターコースでは僕らも一緒に大きく成長させてもらってます。
受講生の皆んなが変容していくのに、僕と野引さんだけは変わらないというのはあり得ないからね。
そうやって一緒にどんどんパラレルワールド移行させてもらってるのです。
さて、先日、「人は自分にメリットがあることしかしていない」というブログを書きました。
例えば、ぼくにお金も時間もなかったら、新しいことに挑戦しなくていいメリットがあったから。
世の中や誰かのせいにしていたときは、自分の人生を引き受けなくていいメリットがあったから。
自分の選択と行動には、そうするメリットがあったからだということを書いたのね。
で、こういうブログを書くと、よく聞かれるのが
理不尽に命を奪われることにもメリットがあるのか?
というもの。
それは「好きなことして生きようよ」と言ったら「じゃあ物を盗んだり人の命を奪ってもいいのか?」というのと似たようなものだと思いますよ(そーんなわけないじゃないですか)。
逆に聞きたいのだけど、極論を提示してまであなたが得たいものはなんなのでしょうか?
実際に誰かが体験した悲しみや絶望を、当事者でもないあなたが引き合いに出してまで得たいメリットはなんでしょうか?
この論理に少しだけお付き合いするなら、ぼくの決断や行動次第で富士山が噴火したり、どこかの国で紛争が起きたり、隕石が墜落するってことでしょうか?
もしも仮に、ほんとに仮に、ぼくの行動次第で世界に影響があるとして(ぼくなりの答えは持ってはいますが)、被害に遭われた人に「はいそのとーりですよ」と言える神経は待ち合わせてないし、当事者でない方にも答える意義を感じないのですよね。
一つ思うのは、誰かの不幸を代弁することで自分の現実と向き合わなくていいメリットというのは、あるかもしれません。
これはもちろんぼく自身にも言えることではあるのだけどね。
運命というのはあるのかもしれないけど、操縦桿を手放した運命論などはそんなに役に立つことがないのかなと思っています。