私立諸越学園(仮)第4話
第4話「テスノート」
普段、温厚な人間がいきなりキレるのを見て狼狽することは誰しも一度や二度はあるだろう。だがしかし、それがテレビ番組やライブ中に人前では一切怒った顔を見せないというアイドルだとしたら? スマイリー亜依子——常に笑顔であることから、SGM128のレギュラーテレビ番組で付けられたニックネームである——こと中谷亜依子が、教室後方の彼女の席から立ち上がり、僕の方へと向かってくる。とあるアイドル評論家は、中谷亜依子を評して『SGMの観音菩薩[かんのんぼさつ]様』と評したという。しかし、ダンダン! とリノリウムの床を靴音で激しく鳴らしながら怖い顔で歩いてくる姿は 菩薩なんかじゃねえ。あれは、般若[はんにゃ]だ!
殺されると思った。少なく見積もっても、まず殴られる! 僕は、少しでもダメージを軽減しようと身構えていたのだが、意外や意外、中谷亜依子は僕に部屋にハエが入ってきたときのような顔で一瞥[いちべつ]をくれただけで通り過ぎ ていった。そして拍子抜けする僕を尻目に、中谷は僕のひとつ前の席に座る宮脇桃恵の前に立ち、「宮脇さん、ノートありがとう」と、借りていたらしいノートを返していた。そうか、もうすぐ中間テストだしな。
我が諸越学園芸能科においては、進級や卒業における単位取得の条件が、一般的な高校とはかなり異なっている。一般的には出席率が重視されるが、多忙な芸能界にも籍を置く生徒たちにそれは期待できない。そこで出席率の代替案として登場したのが、ノートの存在である。
芸能科の生徒の単位取得は、年間5回行われるテストの成績と、それに併せて提出されるノートの内容によって決定されている。テストで良い点を取る、これは難しいようでいて意外と簡単だ。芸能科のテストでは、授業内容を記録したノートを持ち込み可能で、これを見ながらやれば8割方の問題は余裕で解答できるのだ。つまり、難しいのは『授業内容を記録したノート』を用意することだったりする。多忙なアイドルたちは、当然授業を欠席する機会が多いのでノートを取ることもできない。そこで、ノートを写すために、授業に出ていたクラスメートにノートに借りることになる。
Aがドラマの仕事で欠席したときはBがノートを貸し、逆にBがバラエティー番組の仕事のときはAがノートを貸す。そこには、クラス間のコミュニケーションが生まれる。友情を育むことができる。学園の偉い人はこう考えたのだ。確かに、このシステムがなければ僕たち芸能科の生徒は、人がまばらな教室で淡々と授業を受けるだけの学園生活になっていただろうから、偉い人の目論見は概ね間違っていなかったのであろう。なお、他人のノートをコピーしたものを貼り付けただけのようなものは提出時の採点の際、大幅に減点される。一字一句自らの手で記入するのが基本で、さらに自分なりにアレンジが加えられたノートなら、評価においても加点される。
長々と説明したが、要するに我が芸能科ではノートがヤバいくらい大事だってことである。デスノートならぬ『テス(トのときにないとヤバい)ノート』と生徒間では言われてるぐらいだ。もちろん、このシステムにも問題点はあり、それについては僕が痛いくらい感じているのだが、いまは置いておく。
「中谷さん、もう全部写し終わったっすか? 確か現国と数学と日本史と3教科分あったすが」
夏服制服の上から、フード付きカーディガンを羽織った宮脇が、やる気のない声で下を向いたまま中谷に話し掛ける。
「あれくらいの量なら、機械的に写せばすぐ終わるわよ。昔、速記術を習ったから。ところで宮脇さん」
「なんすか~」
フードを目元まで被ったまま、投げやり気味に宮脇が答えた。これでも宮脇桃恵は、声優アイドルとして一部では高い評価を得ている新進声優である。ただし所属するのが弱小事務所ゆえか仕事は少なく、周囲がゼニーズやSGM関連のアイドルだらけの我がクラスでは浮いていた。
「字が汚いわ。どう読めばいいか判断に迷う漢字とかがかなりあったし、次からはもう少し綺麗に写す努力をしてください。あと、英語と生物と世界史のノートも貸してくれない? 今日を逃したら、またしばらく学校に来れないのよ」
ダメ出しした後、平然と新たな要求を宮脇に出していた。
「はあ、わかったす」
げんなりした声で答えながら、貸していたノートを中谷から受け取り、新たなノートを出すために机の引き出しに手を入れる宮脇。フードに隠れてその表情ははっきり見えないが、口を尖らせながら机の引き出しから該当のノートを探し出す姿はあからさまに不機嫌にしか見えなかった。
「はい、どうぞ」
相も変わらず下を向きながら目線を合わさずに、3冊のノートを差し出す宮脇。その態度は、もはややる気がないのではなく宮脇流の中谷に対する後ろ向きな批判だった。
「ありがとう。人と話すときは少しぐらい目を合わせてもいいと思うけど。それじゃ写し終わったら、すぐに返すから」
宮脇の皮肉は、中谷には全く通じていなかったようだった。さすがにヘコんだのか、宮脇は芝居ががった調子で机に向かってバターンと突っ伏し、ふて寝を始めた。そんな宮脇の様子を、生暖かい目で見守っている場合ではなかった。ノートを受け取った中谷は、そのまま僕のほうに向かい直し睨み付けた!
やはり殺される! と、再び思った僕は、顔面だけはとりあえず防御しとこうとクロスさせた腕を盾に臨戦態勢を整えたのだが、しかし中谷は僕に対して電車の中で大声で電話するサラリーマンを見るような顔で一瞥をくれただけで、そのまま僕のひとつ後ろの席に座る杜田に向かって話し掛けた。
「杜田くん。干されて暇なあなたには同情したいところだけど、だからってふざけた真似はやめてほしいわね」
「どういうこと? 該当する案件が多数あるけど、こないだSGMの研究生をナンパしたことかな? 普通科に教育実習に来てた大学生を喰っちゃったことかな? あと、道端で絡んできたヤクザをボコボコにしたとかあったな。あとは……」
「そうじゃないわよ! これ!」
と言いながら、僕を指差す中谷。人を指差すのは、話すとき目を合わさない以上に失礼な行為だと小学校で教わったのは僕だけだったらしい。さすが芸能科、こいつらに常識は通用しない。
「普通科の生徒を紛れ込ませるとか、そういう冗談、私嫌い なのよね」
杜田も御坂と同じくくだらないイタズラ好きなのは知ってるけど、まさかそんな事をしてるとは気付かなかった。
「杜田、そんなイタズラしてたのか。で、その普通科の生徒って誰?」
「…………」
「…………」
杜田と中谷が、呆れた顔で僕のことを見ていた。
「いや、この流れでそうボケるとは思わなかった。さすがマリオだな」
爽やかな笑顔で僕を誉める杜田だが、わけがわからない。
「だって普通科の生徒を入れるのはマズいだろう、芸能科と普通科には前々から確執があるんだし……」
「いやだから、中谷はお前が普通科の生徒だと思ってるわけで」
僕が普通科の生徒に見える? これでも僕は、正式な手続きを経て芸能科に入学した生徒だぞ。その僕を、この中谷さんは普通科の生徒に見えるだと……
「なんだってーッ!!」
「いまごろ気付いたのか、遅えよ」
「遅いっす」
寝たふりしたままの宮脇もさり気なく参加して、僕は前後両方の席に座る者からダブルツッコミを受けたのだった。
「私、仕事柄、共演したとき失礼が無いように、新人のタレントや芸人は日頃チェックしてるんだけど、こんな人テレビでも雑誌でも一度も見たことないわよ」
「これはかなり効いたな」
「効いてる効いてる」
前後の呟きは聞こえないふりして、僕は冷静に務めるように心掛ける。
「僕は、中3のときには『3年D組珍八先生』に出演したし、チョイ役なら結構色々出てるんですよ! 学園モノなら、こないだまでやってた『GYK』にも出てましたし!」
「マリオの逆襲が始まったぞ」
「でも微妙に腰が低いっす」
「『GYK』なら私も一回ゲスト出演したわ。エグイサルのボーカルが教師役で主演した連続ドラマね。あなたは何の役で出演したのかしら?」
中谷の問いに、僕は自信を持って答えた。
「第8話、主役の神堀が生徒が通う進学塾に殴り込みを掛けるシーンで、塾に通う生徒K役で出演しましたよ! 『ヤバいなんだこいつ』という台詞ありで、なんと 8秒も映りました!」
台詞ありの役を貰えると所属する劇団の団長から聞いたときにガッツポーズするほど感動したのを、今でも覚えている。
「エキストラに比べたらだいぶ進歩したぞ!」
「それをトップアイドルと比べる辺り、まさに『ヤバいなんだこいつ』なんすけどね」
「私は第6話の話の中心になるメイン扱いで出演したわ。神堀を陥落させるために学園の理事長から送り込まれた転校生という役だったわね」
「はじめは神堀を陥れるために誘惑してたけど、最終的には神堀のバカ正直さに胸を打たれて理事長を裏切るんですよね! 彼女が学園を去るときの『あれも演技だと思った? 本当はね……さよなら』。あの演技をしてるときの中谷さんの絶妙な表情は素晴らしかったですよ!」
あの演技は、乙ちゃんねるのSGM関連スレでも大評判だったな。
「あ~あ。完全に負けたな」
「マリオがSGM軍団に張り合うには、100年早そうっす」
おい宮脇、100年も経ったら僕もSGMもいないだろうに。そこはせめて10年と言って欲しかった。いや、本当は1年で追い付かなきゃいけないんだけど。
「演技誉めてくれてありがとう。あと一応、芸能科の生徒として認めます。私、忙しいから正直、クラスメートに誰がいるかも正確に把握してないのよ。ごめんなさいね」
「いやいや、でもね、僕はこのクラスでは意外と重要な役目を背負っているんですよ」
そう。さっきのノートの話とも関連するが、僕は意外にもこのクラスでは重宝されているのだ。
「なんかわからんが、マリオのテンションが上がってきたぞ」
「これは次の台詞は長そうっすよ!」
「まず僕は、このクラスのクラス委員長という大役を担[にな]っています。これは、『芸能科の生徒のくせに出席率がありえないくらい高い』という学園始まって以来の珍事に驚いた教師陣が、2年に進級して早々の僕にクラス委員長を任命したのです。なにしろ、学校を欠席しないもんですから連絡事項のやり取りには大助かりだと教師たちには評判です!」
「自慢するほどのことか?」
「つうか、クラス委員長やれる人材が出席率的にマリオしかいないだけのような気がするっす」
前後のダブルツッコミを無視して、僕は中谷に対して続けて熱弁を振るう。
「中谷さんも、芸能科におけるノートの重要性を知っていますよね? ウチの学園はテストでも単位でも、とにかくノートの存在が重要視されています。生徒の欠席率が高い芸能科ゆえに、ノートの貸し借りを行うことで生徒たちが互いを補うようなシステムを構築したのです。しかし、そんな中、僕のような異常に出席率が高い生徒が現れるとどうなるか? まさにバランスブレイカー! テスト前になると、クラスメートの殆どが僕にノートを借りに来るような事態になりました。なにしろ、僕は全ての授業に出席してるのでテスト直前に僕のノートを借りれば、後はそれを写すだけで済んでしまうのです。これに目を付けた杜田が、こないだの期末で僕のノートをコピーしたものを有料販売する始末でした。それほど僕は、このクラスにとってはなくてはならない存在! どうですか中谷さん、少しは僕のこと見直しましたか?」
「中谷さんなら、マリオが『わいはクラス委員長なんやー』とかドヤ顔してた頃には、とっくに自分の席に戻ってたすよー」
フードを取り払った顔は意外にかわいい宮脇が、僕を呆れた顔で見つつ後方でノートを黙々と取る中谷を指差していた。
こんな馬鹿なやり取りを注意深く聞いてる者が他にいたことを、僕はまだ知らない。
第5話に、続く。



