祝「起業25周年」。「リンゴジュース」と「ポップコーン」。
今から25年前、1991年3月27日。僕は人生で初めての会社を設立した。その9年後、36歳の終わり、2000年3月。山川さんたちと一緒にインタースコープを立ち上げた。そして、その後の6月、僕たちは大岡山から中目黒に引っ越した。早くても午前様という不夜城生活を考えると、30分でも通勤の時間は勿体無いし、体力がもたないだろうと思ったからだ。
その後、2005年3月。僕たちは恵比寿の今のマンションに引っ越した。人生で初めて住宅を購入した。
ベランダから見える借景(遮るものが何もない)は都会とは思えない静けさで、遠く多摩川の花火も見える。そして、この季節は、きれいな桜の花が咲く。
僕たち家族は全員、恵比寿という街も今の住まいもとても気に入っているが、長男が中学生、次男が小学生になる2年後を考えると、もう一部屋あった方がいいと思い、思い切って越すことにした。
その後、2005年3月。僕たちは恵比寿の今のマンションに引っ越した。人生で初めて住宅を購入した。
ベランダから見える借景(遮るものが何もない)は都会とは思えない静けさで、遠く多摩川の花火も見える。そして、この季節は、きれいな桜の花が咲く。
僕たち家族は全員、恵比寿という街も今の住まいもとても気に入っているが、長男が中学生、次男が小学生になる2年後を考えると、もう一部屋あった方がいいと思い、思い切って越すことにした。
正確には、部屋数は足りているのだが、その内の一部屋が窓が無い。恵まれていない環境の方が子供は立派に育つという話もあるが、僕は2人の子供に差をつけるのはしたくなかった。また僕自身、変化を求めてもいた。
出来れば、同じ恵比寿で新居を探したかったが、我々が望む条件(マンションでも戸建てでもどちらでも良かった)をクリアすると、僕たちの予算では手が届かず、長男があと2年弱、今の小学校に通える範囲内で、恵比寿から少しだけ離れることにした。
最初に購入し掛けたのは「都立大学」から徒歩7~8分の距離にある土地だった。呑川緑道の近くで、閑静な住宅街だったが、妻は「急行が止まらない」ということと、商店街が充実していないという理由で、実はあまり乗り気ではなかった。その土地は、幸か不幸か、購入代金のローンが通らず、お流れとなった。
次に購入し掛けたのは、目黒線で目黒から一駅の「不動前」から徒歩10分、目黒不動尊のすぐ近くにある新築の建売住宅だった。
その物件は何故か、ローンの審査が通ったのだが、駅から物件までの通り道が静かで、夜9時を過ぎると人通りが少なく、夜中でも人通りが絶えない恵比寿や中目黒に15年以上も住み慣れている僕たちには、夜道は少し怖い気がした。
契約の前日、僕は家族全員で不動前から物件まで歩いてみた方がいいだろうと思い、大阪出張から急いで帰宅し、雨の中を不動前の駅から物件まで、当時はまだ3歳だった次男をベビーカーに乗せ、傘を差しながら歩いてみた。結局、その物件は流すことにした。
ここ数年、年明けから3月までは猛烈に忙しい。法政大学MBAの修士論文の指導、HackOsakaというイベント、そして、シリコンバレーツアー。その合間を縫って、ほぼ毎週土日は「家探し」だった。最初は色々な物件を見に行けるということで楽しんでいた長男も、やがて、「いつになったら普通の週末が来るんだ!」となった。物件探しを始めて3ヶ月、僕も「本当に引っ越しできるのだろうか・・・」と半ば絶望的になっていた。
その時の僕は「52歳」。引っ越し自体は、長男が大学生になる頃まで伸ばすという選択肢もあったが、僕の年齢を考えると、その時点(ちょうど60歳)で新居を購入するのであればローンは組めないだろうからキャッシュ以外に選択肢はなく、不安定極まりない生活をしている僕自身のことを考えると、経済的には今しかないだろうと思っていた。
そんな時、たまたま妻が問い合わせをした不動産会社から提案された物件の中に、結果として購入した土地が含まれていた。駅から徒歩7~8分のその土地は昨年のGW、別の不動産会社から紹介されていた。値段が高く、ちょっと無理だな・・・と思い、見送っていた土地だった。
ところが、妻が見つけてきた不動産会社の提案資料を見ると、GWに見た時には「商談中」となっていた区画が「販売中」になっており、尚且つ、全区画に「参考プラン」が付いていた。「参考プラン」とは、その土地であれば、こういう住宅が建てられますよ!という、文字通り、参考としてのプランのことだ。
それを見ると、残っていた区画の中では一番安い土地でも、4LDKの家が建ち、尚且つ、近隣の関係で、実は日当たりがかなり良さそうなことが分かった。
当時は中国経済がまだ順調で、アベノミクスの効果もあり、都内の不動産価格は上昇しており、また、購入意欲が強く、良い物件は午前中に見たものが夕方には申し込みが入っていたということが普通だった。僕たちはもう一度、その土地を見に行き、紹介してくれた不動産会社に電話をし、購入の意思を伝えた。やはり、僕たちの後にもう一組、購入の申し込みが入った。
その不動産会社の社長はいかにも不動産会社の経営者という感じだったが、見覚えのある名前で、僕は、ひょっとして・・・と思い、ある知り合いに「ご無沙汰です。ところで、◯◯さんのお兄さん、◯◯で不動産会社を経営されていませんか?」とfacebookでメッセージを送った。するとその翌日、「弟です」という返事があった。
また不思議なことに、その不動産会社に行った日は、その土地の近くで、妻の従姉妹の子供に2度も会い、インタースコープ時代に学生インターンをしていた人間(その土地の近くの住人)にばったり会ったりと、なんと一日に5人の知り合いにあった。学生時代にインターンをしていた彼には当然、僕らが買おうとしていた土地の周辺事情について、根掘り葉掘りと質問をした。
4~5ヶ月を掛けてやっと土地を見つけた後は、約3ヶ月、建築家の方との設計の期間になった。毎週、とある住宅メーカーのモデルハウスに家族4人で通う日々が始まった。
次男は「リンゴジュース」と「ポップコーン」にありつけるためか、毎週、楽しみにしていたようだった。長男は「建築」という仕事に興味を持ったようで、その建築家の方から頂いた設計の際に使う定規を使って、暫くの間、住んでみたい家の図面(勿論、素人図面)を書いては、僕たち夫婦に見せる日々を送っていた。
一昨日の土曜日、上棟式を行った。苦労をして見つけた土地に上物が建ち、初めて、建物の中に入った。僕が中学一年生だった時、両親が新居を建てた時のことを思い出した。
引っ越しは6月下旬。あと2ヶ月とちょっと。すぐである。
少しずつ、今の家の中を片付ける必要があり、昔の書類や写真を整理していると、20代の頃の写真や結婚したばかりの頃の写真が出てくる。
実は、それらの写真を見ると、僕はとても哀しい気持ちになる・・・。何故だろう?と考えた。その理由は「何故、もっとプロダクティブに時間を過ごさなかったのだろう・・・?」という思いがあることだと気づいた。
勿論、当時の僕は一生懸命に生きていたし、人生を浪費していたわけではない。でも「何故、あの時、こうしなかったのだろう・・・」と思うことがたくさんあり、この先、それを取り返せる時間があれば話は別なのだろうが、数日前に「53歳」になった現実を考えると、何とも哀しい気持ちになってしまう。
田坂広志さんが「若さがいかに貴重かということに気がつくのは、その若さを失ってからだ」ということをご自身の著書で書かれていたが、「光陰矢の如し、学成り難し」という言葉の意味を今になって実感せざるを得ない自分自身がなんとも情けなく、愚かに思えてくる。
僕に出来ることは、これからの時間を悔いのない時間にすることしかない。今、こうしてブログを書くことにしたのも、そういう思いからだ。
ところで、僕にとっての2冊めの著書「挫折のすすめ」にも書いたが、学部しか出ていない僕が、法政大学経営大学院の客員教授を仰せつかることになったキッカケは2009年の夏、自宅のソファーでドラッカーを読んでいた時に頂いた、小川先生(法政大学経営大学院イノベーションマネジメント研究科創設者、教授)からの一本の電話である。
その小川先生とは最近、LINEでやり取りをすることが多い。そのLINEで、小川先生が4年前の今日、書かれたブログを紹介された。
詳細は是非、そのエントリーを読んでみて頂きたいが、小川先生が学生の頃、東横線の「都立大学」に住んでいたことや、当時、お世話になった伯母さんの話が書かれている。小川先生のその時の心境、時代背景、亡くなられた伯母さんのこと等が、リアルに伝わってくる。そのエントリーを読んで、僕は「文章を書くことが好き」なことを思い出し、ここ最近の思いをブログに残しておくことにした。
はたして、20年前の僕が、小川先生のそのエントリーを読んだら、今と同じような心境になっただろうか・・・。
少しカッコつけて?表現すると、ここ最近、若さに哀愁を感じるようになったが、そういう年齢になってからでないと分からないことや感じないことがあるのだろう・・・。
facebookで頂いた誕生日祝いのメッセージに対するお礼に書いた、今までの人生で最も大きな挑戦に目処をつけたら、2006年から2011年初頭まで、毎月20~25本ぐらいのエントリーを書いていた頃のように、また、頻繁にブログを書きたいと思っている。
文章で食べていける才能は無いが(言うまでもなく)、「文章を書く時間のある人生」を送りたい。
出来れば、同じ恵比寿で新居を探したかったが、我々が望む条件(マンションでも戸建てでもどちらでも良かった)をクリアすると、僕たちの予算では手が届かず、長男があと2年弱、今の小学校に通える範囲内で、恵比寿から少しだけ離れることにした。
最初に購入し掛けたのは「都立大学」から徒歩7~8分の距離にある土地だった。呑川緑道の近くで、閑静な住宅街だったが、妻は「急行が止まらない」ということと、商店街が充実していないという理由で、実はあまり乗り気ではなかった。その土地は、幸か不幸か、購入代金のローンが通らず、お流れとなった。
次に購入し掛けたのは、目黒線で目黒から一駅の「不動前」から徒歩10分、目黒不動尊のすぐ近くにある新築の建売住宅だった。
その物件は何故か、ローンの審査が通ったのだが、駅から物件までの通り道が静かで、夜9時を過ぎると人通りが少なく、夜中でも人通りが絶えない恵比寿や中目黒に15年以上も住み慣れている僕たちには、夜道は少し怖い気がした。
契約の前日、僕は家族全員で不動前から物件まで歩いてみた方がいいだろうと思い、大阪出張から急いで帰宅し、雨の中を不動前の駅から物件まで、当時はまだ3歳だった次男をベビーカーに乗せ、傘を差しながら歩いてみた。結局、その物件は流すことにした。
ここ数年、年明けから3月までは猛烈に忙しい。法政大学MBAの修士論文の指導、HackOsakaというイベント、そして、シリコンバレーツアー。その合間を縫って、ほぼ毎週土日は「家探し」だった。最初は色々な物件を見に行けるということで楽しんでいた長男も、やがて、「いつになったら普通の週末が来るんだ!」となった。物件探しを始めて3ヶ月、僕も「本当に引っ越しできるのだろうか・・・」と半ば絶望的になっていた。
その時の僕は「52歳」。引っ越し自体は、長男が大学生になる頃まで伸ばすという選択肢もあったが、僕の年齢を考えると、その時点(ちょうど60歳)で新居を購入するのであればローンは組めないだろうからキャッシュ以外に選択肢はなく、不安定極まりない生活をしている僕自身のことを考えると、経済的には今しかないだろうと思っていた。
そんな時、たまたま妻が問い合わせをした不動産会社から提案された物件の中に、結果として購入した土地が含まれていた。駅から徒歩7~8分のその土地は昨年のGW、別の不動産会社から紹介されていた。値段が高く、ちょっと無理だな・・・と思い、見送っていた土地だった。
ところが、妻が見つけてきた不動産会社の提案資料を見ると、GWに見た時には「商談中」となっていた区画が「販売中」になっており、尚且つ、全区画に「参考プラン」が付いていた。「参考プラン」とは、その土地であれば、こういう住宅が建てられますよ!という、文字通り、参考としてのプランのことだ。
それを見ると、残っていた区画の中では一番安い土地でも、4LDKの家が建ち、尚且つ、近隣の関係で、実は日当たりがかなり良さそうなことが分かった。
当時は中国経済がまだ順調で、アベノミクスの効果もあり、都内の不動産価格は上昇しており、また、購入意欲が強く、良い物件は午前中に見たものが夕方には申し込みが入っていたということが普通だった。僕たちはもう一度、その土地を見に行き、紹介してくれた不動産会社に電話をし、購入の意思を伝えた。やはり、僕たちの後にもう一組、購入の申し込みが入った。
その不動産会社の社長はいかにも不動産会社の経営者という感じだったが、見覚えのある名前で、僕は、ひょっとして・・・と思い、ある知り合いに「ご無沙汰です。ところで、◯◯さんのお兄さん、◯◯で不動産会社を経営されていませんか?」とfacebookでメッセージを送った。するとその翌日、「弟です」という返事があった。
また不思議なことに、その不動産会社に行った日は、その土地の近くで、妻の従姉妹の子供に2度も会い、インタースコープ時代に学生インターンをしていた人間(その土地の近くの住人)にばったり会ったりと、なんと一日に5人の知り合いにあった。学生時代にインターンをしていた彼には当然、僕らが買おうとしていた土地の周辺事情について、根掘り葉掘りと質問をした。
4~5ヶ月を掛けてやっと土地を見つけた後は、約3ヶ月、建築家の方との設計の期間になった。毎週、とある住宅メーカーのモデルハウスに家族4人で通う日々が始まった。
次男は「リンゴジュース」と「ポップコーン」にありつけるためか、毎週、楽しみにしていたようだった。長男は「建築」という仕事に興味を持ったようで、その建築家の方から頂いた設計の際に使う定規を使って、暫くの間、住んでみたい家の図面(勿論、素人図面)を書いては、僕たち夫婦に見せる日々を送っていた。
一昨日の土曜日、上棟式を行った。苦労をして見つけた土地に上物が建ち、初めて、建物の中に入った。僕が中学一年生だった時、両親が新居を建てた時のことを思い出した。
引っ越しは6月下旬。あと2ヶ月とちょっと。すぐである。
少しずつ、今の家の中を片付ける必要があり、昔の書類や写真を整理していると、20代の頃の写真や結婚したばかりの頃の写真が出てくる。
実は、それらの写真を見ると、僕はとても哀しい気持ちになる・・・。何故だろう?と考えた。その理由は「何故、もっとプロダクティブに時間を過ごさなかったのだろう・・・?」という思いがあることだと気づいた。
勿論、当時の僕は一生懸命に生きていたし、人生を浪費していたわけではない。でも「何故、あの時、こうしなかったのだろう・・・」と思うことがたくさんあり、この先、それを取り返せる時間があれば話は別なのだろうが、数日前に「53歳」になった現実を考えると、何とも哀しい気持ちになってしまう。
田坂広志さんが「若さがいかに貴重かということに気がつくのは、その若さを失ってからだ」ということをご自身の著書で書かれていたが、「光陰矢の如し、学成り難し」という言葉の意味を今になって実感せざるを得ない自分自身がなんとも情けなく、愚かに思えてくる。
僕に出来ることは、これからの時間を悔いのない時間にすることしかない。今、こうしてブログを書くことにしたのも、そういう思いからだ。
ところで、僕にとっての2冊めの著書「挫折のすすめ」にも書いたが、学部しか出ていない僕が、法政大学経営大学院の客員教授を仰せつかることになったキッカケは2009年の夏、自宅のソファーでドラッカーを読んでいた時に頂いた、小川先生(法政大学経営大学院イノベーションマネジメント研究科創設者、教授)からの一本の電話である。
その小川先生とは最近、LINEでやり取りをすることが多い。そのLINEで、小川先生が4年前の今日、書かれたブログを紹介された。
詳細は是非、そのエントリーを読んでみて頂きたいが、小川先生が学生の頃、東横線の「都立大学」に住んでいたことや、当時、お世話になった伯母さんの話が書かれている。小川先生のその時の心境、時代背景、亡くなられた伯母さんのこと等が、リアルに伝わってくる。そのエントリーを読んで、僕は「文章を書くことが好き」なことを思い出し、ここ最近の思いをブログに残しておくことにした。
はたして、20年前の僕が、小川先生のそのエントリーを読んだら、今と同じような心境になっただろうか・・・。
少しカッコつけて?表現すると、ここ最近、若さに哀愁を感じるようになったが、そういう年齢になってからでないと分からないことや感じないことがあるのだろう・・・。
facebookで頂いた誕生日祝いのメッセージに対するお礼に書いた、今までの人生で最も大きな挑戦に目処をつけたら、2006年から2011年初頭まで、毎月20~25本ぐらいのエントリーを書いていた頃のように、また、頻繁にブログを書きたいと思っている。
文章で食べていける才能は無いが(言うまでもなく)、「文章を書く時間のある人生」を送りたい。
「起業25周年」。創業と卒業。
2011年のゴールデンウィーク。家族の反対を押し切り、僕は新幹線で福島駅へ行き、駅前でレンタカー(ガス欠リスクが少ないプリウス)を借りて、相馬港に向かった。
1995年の阪神淡路大震災の時も現実を自分の目で見てみたいと思ったが、関西出身でもない僕は、単なる野次馬に過ぎず、そんな迷惑な話はないだろうと思い、神戸に行くのは思い留まった。
しかし「3.11」は、僕の出身地である東北(僕は福島県郡山市の出身)に起きた大震災であり、尚且つ、福島原発事故により、福島県は「筆舌に尽くし難い」大惨事に見舞われ、僕には自分の目で確かめる権利(理由)があると思った。
テレビのニュースやYOUTUBEで散々、津波の動画や破壊された町並みを見ていたが、実際に相馬港に近づくと、その「異様な光景」に言葉を失った・・・。
あれから5年。福島県出身ではあるが東京に住み始めて30年以上になる僕は、何事も無かったかのような生活を送っている。しかし、現地には今も避難所生活を余儀なくされている方々がいることを考えると、何と言っていいのか?どう考えればいいのか?言葉に窮する。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると同時に、被災された方々が新しい生活に立ち向かって行けるよう応援したい。物理的には何もできないが・・・。
ところで、3月は僕にとって、とても大切な月である。
1991年3月27日。僕は人生で初めて「会社」というものを設立した。
株式会社クリードエクセキュート(1991年3月27日設立)、株式会社インタースコープ(2000年3月9日設立)、株式会社ドリームビジョン(2006年3月4日設立)、そして、サンブリッジの仕事を始めたのが「2011年3月1日」。
そして、誕生日は「3月30日」。
今年3月で、起業してから「25年」。僕ぐらいの能力で、よくまあ今日まで、やって来れたものだ・・・というのが偽らざるを得ない心境である。
また、今年の3月は僕にとって「卒業」の年でもある。2012年10月から関わってきた「大阪 Global Innovation 創出支援事業」の契約が今月末で満了となる。
先日の「シリコンバレーツアー報告会」の時、「そうか、いよいよ終わりなんだな・・・」と思った。
正直、無理難題の連続で、スタッフ共々ヘトヘトになりながら取り組んで来た。
例えば2013年2月のカンファレンス。当初は僕が担当ではなかったが、途中から僕がKeynote スピーカーの招聘責任者となり、超過密スケジュールの500startups, Dave McClure を呼び寄せたり(結果的に、Dave は伝説となる名演説をしてくれた!)、この予算でそこまで求めるか?(失礼!)というスケジュールで毎週、東京と大阪を新幹線で往復したり(それは途中で勘弁していただいた。感謝!)。また、今年のシリコンバレーツアーでは、連れて行った学生の中の2人が現地で「インフルエンザ」に罹ってしまい、急遽、フライトをキャンセル。夜中に救急病院に連れて行ったりと、まあ、楽しいツアーだったw。
身体は勿論、心も酷使した3年6ヶ月だったが、それなりの成果も出ており、胸を張っていいと思っている。
もし、10年後、大阪に「Global Startup Community」が出来ていたとしたら(そう簡単ではない)、それは紛れも無く、橋下さんの功績である。
行政としては、前代未聞な政策であり、他の自治体も大阪市の政策を参考にし、類似の施策を実施している。そんな大阪市の政策の実行に関与させていただいたことを、とても光栄に思っている。
ところで今年は、ある人と一緒にシリコンバレーで新しい会社を立ち上げる計画を進めている。
36歳の終わりにインタースコープを立ち上げた頃、後で振り返った時、「30代最後の3年間は僕の人生で2番目に高いピークになるだろう」と思ったと同時に、僕の人生のピークは「53~57歳」だろうと何の根拠もなく思ったが、事実として、37~39歳はインタースコープ急成長の3年間となり、御三家の一角に伸し上がった。
プライベートでは今年は新居も建つ。「好事魔多し」。心して掛かろうと思う。
一方、大前研一氏は「予言は自己実現する」と言っている。
36歳の時に思ったことが実現するかどうかは、自分自身の努力次第。
「幸運」に「感謝」しつつ、2人の子供たちに父親のカッコイイところを見せられるように!
1995年の阪神淡路大震災の時も現実を自分の目で見てみたいと思ったが、関西出身でもない僕は、単なる野次馬に過ぎず、そんな迷惑な話はないだろうと思い、神戸に行くのは思い留まった。
しかし「3.11」は、僕の出身地である東北(僕は福島県郡山市の出身)に起きた大震災であり、尚且つ、福島原発事故により、福島県は「筆舌に尽くし難い」大惨事に見舞われ、僕には自分の目で確かめる権利(理由)があると思った。
テレビのニュースやYOUTUBEで散々、津波の動画や破壊された町並みを見ていたが、実際に相馬港に近づくと、その「異様な光景」に言葉を失った・・・。
あれから5年。福島県出身ではあるが東京に住み始めて30年以上になる僕は、何事も無かったかのような生活を送っている。しかし、現地には今も避難所生活を余儀なくされている方々がいることを考えると、何と言っていいのか?どう考えればいいのか?言葉に窮する。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると同時に、被災された方々が新しい生活に立ち向かって行けるよう応援したい。物理的には何もできないが・・・。
ところで、3月は僕にとって、とても大切な月である。
1991年3月27日。僕は人生で初めて「会社」というものを設立した。
株式会社クリードエクセキュート(1991年3月27日設立)、株式会社インタースコープ(2000年3月9日設立)、株式会社ドリームビジョン(2006年3月4日設立)、そして、サンブリッジの仕事を始めたのが「2011年3月1日」。
そして、誕生日は「3月30日」。
今年3月で、起業してから「25年」。僕ぐらいの能力で、よくまあ今日まで、やって来れたものだ・・・というのが偽らざるを得ない心境である。
また、今年の3月は僕にとって「卒業」の年でもある。2012年10月から関わってきた「大阪 Global Innovation 創出支援事業」の契約が今月末で満了となる。
先日の「シリコンバレーツアー報告会」の時、「そうか、いよいよ終わりなんだな・・・」と思った。
正直、無理難題の連続で、スタッフ共々ヘトヘトになりながら取り組んで来た。
例えば2013年2月のカンファレンス。当初は僕が担当ではなかったが、途中から僕がKeynote スピーカーの招聘責任者となり、超過密スケジュールの500startups, Dave McClure を呼び寄せたり(結果的に、Dave は伝説となる名演説をしてくれた!)、この予算でそこまで求めるか?(失礼!)というスケジュールで毎週、東京と大阪を新幹線で往復したり(それは途中で勘弁していただいた。感謝!)。また、今年のシリコンバレーツアーでは、連れて行った学生の中の2人が現地で「インフルエンザ」に罹ってしまい、急遽、フライトをキャンセル。夜中に救急病院に連れて行ったりと、まあ、楽しいツアーだったw。
身体は勿論、心も酷使した3年6ヶ月だったが、それなりの成果も出ており、胸を張っていいと思っている。
もし、10年後、大阪に「Global Startup Community」が出来ていたとしたら(そう簡単ではない)、それは紛れも無く、橋下さんの功績である。
行政としては、前代未聞な政策であり、他の自治体も大阪市の政策を参考にし、類似の施策を実施している。そんな大阪市の政策の実行に関与させていただいたことを、とても光栄に思っている。
ところで今年は、ある人と一緒にシリコンバレーで新しい会社を立ち上げる計画を進めている。
36歳の終わりにインタースコープを立ち上げた頃、後で振り返った時、「30代最後の3年間は僕の人生で2番目に高いピークになるだろう」と思ったと同時に、僕の人生のピークは「53~57歳」だろうと何の根拠もなく思ったが、事実として、37~39歳はインタースコープ急成長の3年間となり、御三家の一角に伸し上がった。
プライベートでは今年は新居も建つ。「好事魔多し」。心して掛かろうと思う。
一方、大前研一氏は「予言は自己実現する」と言っている。
36歳の時に思ったことが実現するかどうかは、自分自身の努力次第。
「幸運」に「感謝」しつつ、2人の子供たちに父親のカッコイイところを見せられるように!
今回のNew York 出張は、楽しかった。
今回のNew York 出張は、楽しかった。
1986年2月に初めて訪れて以来、かれこれ30回近く、NYCに行っているが、今回の2泊3日(両側は移動日で、実質一日)のNYC訪問は、僕は何を大切にしているのか?何にモチベートされ、何を求めているのかを再認識する良い機会となった。
本当は2/27(土)に San Francisco から New York に移動するはずだったが、大阪市主催のシリコンバレーツアーで連れて行っていた学生&社会人(総勢約40名!)の中の3人がインフルエンザに罹ってしまい、27(土)のフライトに乗れないという事態が発生。その対応でシリコンバレー滞在を2日ほど延長した。
正直、実質一日のためにNYCに行くべきかどうかギリギリまで悩んだが、結論として、強行軍で行くことにした。
NYCには、僕らの投資先である「Peatix」と「Material Wrld」というスタートアップがある。3/1(火)の昼過ぎにPeatix のオフィスを訪ね、その後、昨年秋にBrooklynに引っ越した Material Wrld のNew Office を訪ねた。
Peatix はTokyoで生まれたスタートアップだが、2013年から、Co-founder/CEOの原田さんが育った街でもある New York に進出した。彼らが戦う市場にはEventbright というガリバーがいて、米国市場でPeatix の橋頭堡を築くのはそう容易いことではなく、正直、かなり苦労をしているが、原田さんの挑戦を応援したい。
Peatix は2011年5月20日、ベンチャーナウの竹内さん、ネットエイジ創業者の西川さん、そして僕とで始めたピッチイベント「Innovation Weekend」の記念すべきKick off イベントでの優勝チームである。当時は、Orinoco という社名だった。その年の12月、僕らは彼らに投資した。彼らが他の事業を整理し、Peatix に懸けることを決めたからだ。
Material Wrld とは、投資先のLanguage Cloud のJohn から紹介されて知り合った。Co-founder のRie とJie は Harvard Business School で知り合い、共に働いていたファッション業界で感じていた問題意識で意気投合し起業。僕たちは、一度も彼女たちに会うことなく、Skype で話をしただけで、投資することを決めた。
Rie(日本人)は外交的な性格でチャーミング、華があり、人を惹きつける魅力を持っている。Jie は Cool Beauty なチャイニーズ。非常に Practical というか、Operation Excellent な女性で、この2人の相互補完関係なら成功するだろうと思った。実際に2人に会ったのは、投資してから1年後ぐらいだった。
NYC時間で3/1(火)のディナーは、Material Wrld の Rie とJie、Peatix の原田さん、CFOのAkikoさん、事業開発のDaniel、として僕というメンバー。
facebookにも書いたが、全員がスタートアップの世界に生きており、お互いの事業の進捗状況、競合の状況、日本のスタートアップ界隈の噂話(笑)、米国のスタートアップ事情、そして、お互いの「人生観」を含めて、なんと4時間もの間、様々な話題に花が咲いた。
僕以外は全員、英語のネイティブスピーカーで、Jie と Daniel は日本語が話せないし、当然のことだが、会話は英語だった。中にはよく聞き取れない会話もあったし、自分が思い描くレベルには程遠く、自分自身の英語力にストレスを感じたが、それでも8割方は理解でき、彼らとの会話を楽しむことができた。
福島県郡山市という地方都市で生まれ育ち、一度も海外に住んだことがない僕が、こうして、NYCに投資先ができ(海外という意味では、Silicon Valley にもLondonにもある)、彼らと想いを共有でき(それは、僕自身が起業家として成功も失敗も経験してきたからだ。そのことは自信をもって言える。)、楽しい時間を共にし、そして「人生観」という深い話を「英語」でできるなんて、僕にとってそんな幸せなことはない。
あんな楽しい夜は、記憶にないほど久しぶりだった。
学生の頃、ぼんやりと夢見ていたことは、こういうことだったのだろう・・・。
願わくば、あと10歳、若かったら・・・と思うが、自作の座右の銘のとおり、「人生はすべて必然」であり、僕にとっては今が、そのタイミングなのだろう。
この生命があと20年、できれば、あと25年、続いてくれたら幸せである。
on my way back to Tokyo by Narita Express(に加筆修正)
1986年2月に初めて訪れて以来、かれこれ30回近く、NYCに行っているが、今回の2泊3日(両側は移動日で、実質一日)のNYC訪問は、僕は何を大切にしているのか?何にモチベートされ、何を求めているのかを再認識する良い機会となった。
本当は2/27(土)に San Francisco から New York に移動するはずだったが、大阪市主催のシリコンバレーツアーで連れて行っていた学生&社会人(総勢約40名!)の中の3人がインフルエンザに罹ってしまい、27(土)のフライトに乗れないという事態が発生。その対応でシリコンバレー滞在を2日ほど延長した。
正直、実質一日のためにNYCに行くべきかどうかギリギリまで悩んだが、結論として、強行軍で行くことにした。
NYCには、僕らの投資先である「Peatix」と「Material Wrld」というスタートアップがある。3/1(火)の昼過ぎにPeatix のオフィスを訪ね、その後、昨年秋にBrooklynに引っ越した Material Wrld のNew Office を訪ねた。
Peatix はTokyoで生まれたスタートアップだが、2013年から、Co-founder/CEOの原田さんが育った街でもある New York に進出した。彼らが戦う市場にはEventbright というガリバーがいて、米国市場でPeatix の橋頭堡を築くのはそう容易いことではなく、正直、かなり苦労をしているが、原田さんの挑戦を応援したい。
Peatix は2011年5月20日、ベンチャーナウの竹内さん、ネットエイジ創業者の西川さん、そして僕とで始めたピッチイベント「Innovation Weekend」の記念すべきKick off イベントでの優勝チームである。当時は、Orinoco という社名だった。その年の12月、僕らは彼らに投資した。彼らが他の事業を整理し、Peatix に懸けることを決めたからだ。
Material Wrld とは、投資先のLanguage Cloud のJohn から紹介されて知り合った。Co-founder のRie とJie は Harvard Business School で知り合い、共に働いていたファッション業界で感じていた問題意識で意気投合し起業。僕たちは、一度も彼女たちに会うことなく、Skype で話をしただけで、投資することを決めた。
Rie(日本人)は外交的な性格でチャーミング、華があり、人を惹きつける魅力を持っている。Jie は Cool Beauty なチャイニーズ。非常に Practical というか、Operation Excellent な女性で、この2人の相互補完関係なら成功するだろうと思った。実際に2人に会ったのは、投資してから1年後ぐらいだった。
NYC時間で3/1(火)のディナーは、Material Wrld の Rie とJie、Peatix の原田さん、CFOのAkikoさん、事業開発のDaniel、として僕というメンバー。
facebookにも書いたが、全員がスタートアップの世界に生きており、お互いの事業の進捗状況、競合の状況、日本のスタートアップ界隈の噂話(笑)、米国のスタートアップ事情、そして、お互いの「人生観」を含めて、なんと4時間もの間、様々な話題に花が咲いた。
僕以外は全員、英語のネイティブスピーカーで、Jie と Daniel は日本語が話せないし、当然のことだが、会話は英語だった。中にはよく聞き取れない会話もあったし、自分が思い描くレベルには程遠く、自分自身の英語力にストレスを感じたが、それでも8割方は理解でき、彼らとの会話を楽しむことができた。
福島県郡山市という地方都市で生まれ育ち、一度も海外に住んだことがない僕が、こうして、NYCに投資先ができ(海外という意味では、Silicon Valley にもLondonにもある)、彼らと想いを共有でき(それは、僕自身が起業家として成功も失敗も経験してきたからだ。そのことは自信をもって言える。)、楽しい時間を共にし、そして「人生観」という深い話を「英語」でできるなんて、僕にとってそんな幸せなことはない。
あんな楽しい夜は、記憶にないほど久しぶりだった。
学生の頃、ぼんやりと夢見ていたことは、こういうことだったのだろう・・・。
願わくば、あと10歳、若かったら・・・と思うが、自作の座右の銘のとおり、「人生はすべて必然」であり、僕にとっては今が、そのタイミングなのだろう。
この生命があと20年、できれば、あと25年、続いてくれたら幸せである。
on my way back to Tokyo by Narita Express(に加筆修正)
もし、99%の確率で交通事故に遭うと分かっていたら、あなたはクルマに乗るだろうか?
今の仕事を始めてから、毎年一回はシリコンバレーに来るようになったが、今までに聞いたこの地を形容する表現の中で、最も言い得て妙だと思った話を紹介したい。
Would you drive or get in a car if you have traffic accidents in 99 percent of all cases?
Silicon Valley is the place filled with such kinda crazy people...
That's why this place has continuously produced Innovation.
僕らの投資先のCTOをしている Varouzhan Ebrahimian という人がいる。彼が昨日のピッチ予選の審査員として来てくれた際にとある話をしてくれた。
色々な人たちがシリコンバレーに来るが、彼らが必ずしてくる質問があるそうだ。
「何故、ここは常に"World Class"のイノベーションを生み出すのか?ここの人たちは他の地域の人たちよりも頭がいいのか?」
それに対する彼の答えが「99%の確率で事故に遭うと分かっていても、1%の事故に遭わない可能性に懸ける人たち」ということだ。
徒手空拳で起業したのが1991年、ネットバブルの最終列車に飛び乗ったのが2000年、創業メンバーのひとりとして立ち上げたウェブクルーが東証マザーズに上場したのが2004年、山川さんと一緒に創業し、業界の御三家の一角となったインタースコープをYahoo! Japan に売却したのが2007年、運と実力を勘違いし、見事に玉砕したドリームビジョンの事業を整理したのが2008年、Allenとの2年半ぶりの再会がキッカケとなり、サンブリッジにジョインし、会社分割でサンブリッジ グローバルベンチャーズを創業したのが2012年、立ち上げたファンドが3本、投資先の半分以上は「海外のスタートアップ」になった。
こうして振り返ると、色々なことをやってきたが、起業して「会社」を育てていくことは、とてつもなく大変だということだ。
こちらの起業家友達の Jen という女性が、今回のツアー参加者を連れて行った時のレクチャーで、It's all about people. と言っていたが、本当にそう思う。
ここ数年、具体的にはドリームビジョンでの大失敗の後は、パーを取ることを考え、ボギーを叩かないようにしてきたが、バーディーを狙う生き方はして来なかった。
色々な意味で懲りたというか、新しいことを立ち上げるのが如何に大変かということを理解したせいだが、ボギーを叩くリスクを負ってでも狙いたいバーディーが無かったのも事実である。
それが昨年末、シリコンバレーに移住して20年になる、とある人との再会により、この先の10年、これに懸けよう!と思うことが現れた。
シリコンバレーは、懲りない人を惹きつける場所だ。
来月で53歳になる人間をも…。
次男の両手に刺さったトゲと祖父の思い出。
今日は今月で4歳になった次男の誕生日祝いを兼ねて、ストライダーちっくな自転車を買いにお台場へ。浪費家の僕とは違い、何でも徹底的に調べてから購入する極めて慎重派の妻は、何カ所か巡った後、ようやく、今日のお店で自転車を買った。
そこまでは良かったが、自転車を買ってもらってご機嫌にはしゃいでいた次男は、Decks 3階のウッドデッキで転んでしまい、なんと、両手に5-6ヵ所ずつ、トゲが刺さってしまった…。
僕が子供の頃は、一緒に住んでいた父方の祖父が、火に焙って消毒した裁縫針で器用にトゲを取ってくれた。小学校に入ってからは、自分で同じようにしてトゲを抜いていた。
そんなことで、次男の両手に刺さったトゲも、子供の頃を思い出し、裁縫針を火に焙って消毒し、いくつかは取ったのだが、さすがにこれは無理だろう…というトゲがいくつかあり、仕方なく、日赤医療センターの救急に連れて行った。正確に言うと、自分で取れなくはなかったが、かなり深く刺さっており、体格に似合わず怖がりで大泣きする次男を考えると、ぎゃあぎゃあ泣き騒ぐのは想像に難くなく、僕が自分でやるのは断念した。
日赤医療センターの救急窓口は混んでいたが、小1時間ほど待っただろうか?外科の医師が診察してくれた。次男は、案の定、痛い~!我慢できないー!と、泣き騒いだが、なんとか両手のトゲは取れた。
そんなことで、僕は予定が大幅に狂い、夕食を食べ損ねたまま自宅を出た。
今日からシリコンバレーとNew York への出張である。
「野党」と「人間の死亡率は100%」。
僕の場合、ブログを書くにはエネルギーがいる・・・。
ここ数ヶ月は書きたいことがたくさんあったが、溜まっている仕事があり、僕のリアクションを待たせている中、ブログを書くのは申し訳ないという気持ちがあり、遠慮していたが、何とか一段落したこともあり、久しぶりに書いてみた。
facebook の3年前のこの日・・・とかいう機能はいいね。なるほど・・・あれから、もう3年も経つのか?と、自分の軌跡を振り返ることができるし、忘れていた大切なことや人たちを思い出させてくれる。
僕たち兄弟の母は、僕が15歳の時、45歳の若さで亡くなった。父は僕が24歳の時、55歳で亡くなった。僕も含めて、人間はいつかはこの世を去る。
僕が20代の時に務めていたODSという会社の創業者(山口さん)は生前、元ソニーCEOの出井さんと親しくしており、山口さんのお別れ会は出井さんが音頭を取って開催された。そこでの出井さんのスピーチが印象的だった。
「人間の死亡率は100%ですから・・・(あれほどエネルギーに満ち溢れていた山口さんでも亡くなるということです)」。
ドラッカーは「人は一年でできることを過大評価する一方、5年あれば(実現)できることを過小評価する」と言っていた。
今から思えば、どう考えても無謀であり、当時の僕の実力では成功するはずがないことに挑戦し、見事に玉砕したのが2008年。晴耕雨読ならぬ「晴『読』雨読」生活を送っていた2009年から数えると7年が経った。
修士すら出ていない僕が「法政大学」の「経営大学院(MBA)」の客員教授になり、Allenとの再会がきっかけでサンブリッジにジョインし、会社分割でサンブリッジ グローバルベンチャーズを設立。投資先の大半は「海外」のスタートアップになった。
2011年5月20日にベンチャーナウの竹内さんと一緒に立ち上げた「Innovation Weekend」は海外で開催するようになり、僕は「London Tech City Global Fellow」になった。要するに、ロンドンのスタートアップのグローバル化を手伝う顧問だ。自分でも笑ってしまう。ロンドンどころか、一度も海外に住んだこともないのにだ・・・。おまけに昨年、ロンドン市長 Boris Johnson 氏が初来日した際の英国大使館のレセプションではパネルディスカッションに登壇させていただき、その時の僕の発言をJapan Times が掲載してくれた・・・。Boris Johnson 氏を囲む昼食会までご一緒させていただき、幸運にも隣の隣の席だった。
NOKKOはいいね。YOUTUBEでしか見たことはないけど、解散コンサートの「フレンズ」は最高だ!願わくば、GLOBALに売れて欲しかった!彼女たちに限らず、僕の大好きなチャーにしても、その才能からすれば、GLOBALに成功してもおかしくない人が日本人にはたくさんいる!
東洋人だからか、母国語が日本語だからか、その理由はともかく、とてももどかしい・・・。
高校生の頃、日比谷の野外音楽堂でライブをやって、満員の観客からアンコールをもらったら、その場で死んでもいいと思っていたけれど、やっぱりミュージシャンは最高だ!極々一握りの才能がある人たちだけではあるけれど、こんなにも人の心を揺さぶって、頑張ろう!って気にすることができるのだから・・・。
この週末+明日は、法政大学MBAでの仕事。一般的な大学院の修士論文に相当する「プロジェクト」と言われるビジネスプランの最終発表会。自分が発表するよりも、担当する学生の発表を待つ方が緊張する。人を指導するのは難しい・・・。自分が未熟だということを思い知らされる。でも、勉強になる。
プロジェクト発表会が終わると大阪。今年は2/17(水)、HackOsakaというカンファレンスがある。僕は3年前から、大阪Global Innovation創出支援事業(略して大阪GI)のスーパープロデューサーなる、どうにもカッコ悪い役職の仕事を仰せつかっている。
正直に言って、大阪にスタートアップのコミュニティを創るのは至難の業だ。東京にざくっと年間約1,000億円のVC投資があるのに対して、大阪には70~80億円ほどしかない。最近の東京のイケてるスタートアップなら2~3社でその額を集めてしまう。自分でベンチャーを立ちあげたい、起業したいという、優秀でやる気がある人たちは殆どと言っていいぐらい、東京に行く。おカネだけではなく、仲間も情報も必要なノウハウもすべてが東京にあるからだ。
facebook の3年前のこの日・・・とかいう機能はいいね。なるほど・・・あれから、もう3年も経つのか?と、自分の軌跡を振り返ることができるし、忘れていた大切なことや人たちを思い出させてくれる。
僕たち兄弟の母は、僕が15歳の時、45歳の若さで亡くなった。父は僕が24歳の時、55歳で亡くなった。僕も含めて、人間はいつかはこの世を去る。
僕が20代の時に務めていたODSという会社の創業者(山口さん)は生前、元ソニーCEOの出井さんと親しくしており、山口さんのお別れ会は出井さんが音頭を取って開催された。そこでの出井さんのスピーチが印象的だった。
「人間の死亡率は100%ですから・・・(あれほどエネルギーに満ち溢れていた山口さんでも亡くなるということです)」。
ドラッカーは「人は一年でできることを過大評価する一方、5年あれば(実現)できることを過小評価する」と言っていた。
今から思えば、どう考えても無謀であり、当時の僕の実力では成功するはずがないことに挑戦し、見事に玉砕したのが2008年。晴耕雨読ならぬ「晴『読』雨読」生活を送っていた2009年から数えると7年が経った。
修士すら出ていない僕が「法政大学」の「経営大学院(MBA)」の客員教授になり、Allenとの再会がきっかけでサンブリッジにジョインし、会社分割でサンブリッジ グローバルベンチャーズを設立。投資先の大半は「海外」のスタートアップになった。
2011年5月20日にベンチャーナウの竹内さんと一緒に立ち上げた「Innovation Weekend」は海外で開催するようになり、僕は「London Tech City Global Fellow」になった。要するに、ロンドンのスタートアップのグローバル化を手伝う顧問だ。自分でも笑ってしまう。ロンドンどころか、一度も海外に住んだこともないのにだ・・・。おまけに昨年、ロンドン市長 Boris Johnson 氏が初来日した際の英国大使館のレセプションではパネルディスカッションに登壇させていただき、その時の僕の発言をJapan Times が掲載してくれた・・・。Boris Johnson 氏を囲む昼食会までご一緒させていただき、幸運にも隣の隣の席だった。
NOKKOはいいね。YOUTUBEでしか見たことはないけど、解散コンサートの「フレンズ」は最高だ!願わくば、GLOBALに売れて欲しかった!彼女たちに限らず、僕の大好きなチャーにしても、その才能からすれば、GLOBALに成功してもおかしくない人が日本人にはたくさんいる!
東洋人だからか、母国語が日本語だからか、その理由はともかく、とてももどかしい・・・。
高校生の頃、日比谷の野外音楽堂でライブをやって、満員の観客からアンコールをもらったら、その場で死んでもいいと思っていたけれど、やっぱりミュージシャンは最高だ!極々一握りの才能がある人たちだけではあるけれど、こんなにも人の心を揺さぶって、頑張ろう!って気にすることができるのだから・・・。
この週末+明日は、法政大学MBAでの仕事。一般的な大学院の修士論文に相当する「プロジェクト」と言われるビジネスプランの最終発表会。自分が発表するよりも、担当する学生の発表を待つ方が緊張する。人を指導するのは難しい・・・。自分が未熟だということを思い知らされる。でも、勉強になる。
プロジェクト発表会が終わると大阪。今年は2/17(水)、HackOsakaというカンファレンスがある。僕は3年前から、大阪Global Innovation創出支援事業(略して大阪GI)のスーパープロデューサーなる、どうにもカッコ悪い役職の仕事を仰せつかっている。
正直に言って、大阪にスタートアップのコミュニティを創るのは至難の業だ。東京にざくっと年間約1,000億円のVC投資があるのに対して、大阪には70~80億円ほどしかない。最近の東京のイケてるスタートアップなら2~3社でその額を集めてしまう。自分でベンチャーを立ちあげたい、起業したいという、優秀でやる気がある人たちは殆どと言っていいぐらい、東京に行く。おカネだけではなく、仲間も情報も必要なノウハウもすべてが東京にあるからだ。
ある人に質問されたことがある。
Ikuo, do you think you can reverse the tide?
「常識の範疇」のことをやっているだけでは、「潮の流れ」は「変えられない」。
京都や福岡ほどこじんまりをまとまっているわけではなし、総合力では東京に勝てっこない。「これなら大阪だ!」という何かが必要だが、まだ、それは見えていない。
2013年2月14日。500startups創業者のDave McClureが演台をバン!と叩き、「お前らにイノベーションなんて起こせないだろう!!(その覚悟があるのか?)」と言ったのは単なるパフォーマンスではない。
この期に及んで雇用を守れ・・・。痛みを覚悟せず、改革ができるというのだろうか?
「新しい産業」に羽ばたかせてあげる良い機会だ!という考え方はできないのか?何とも情け無い、と思うのは、僕だけだろうか?
その大阪も少しずつ変わってきた。関西の雄、阪急電鉄の高岸さんという方は今から5年ちょっと前、とあるセミナーで知り合ったAllen Miner(サンブリッジ創業者)をあの手この手で誘惑?し、阪急の古いビルを利用して、梅田にインキュベーションオフィスを立ち上げた。そして、2015年3月には、2億円と金額は小さいが、僕たちと一緒にファンドまで立ち上げた!阪急電鉄にとっては前代未聞(前例はない)のことらしい。大組織も、本当に何かを変えたいと思う「熱い」想いをもった一人の人間がいれば変えられる、ということだ。
また、阪急関連の公益財団法人 都市活力研究所の大谷さん(一児の母)は、財団の仕事として、Innovation Weekend World Tour を応援してくれている。お嬢さんの面倒を見てもらうべく、実家のお母さんを呼び寄せてまで、New York, London, Paris, Boston, Singapore, Berlin・・・と同行してくれており、事実上、運営スタッフの一員である。彼女のエネルギーが、Ripple effect をもたらすことを期待したい。
今年のHackOsakaでは、ソフトバンクも出資する tokopedia, founder & CEO, William、弊社の投資先でもあるPeatix Co-founder 竹村さん、「ユニコーン(時価総額1Billion USD以上の未公開企業)」の一社であるWeWorkのDaniel, 欧州を代表するシード・アクセラレーター startupbootcamp, Co-founder &CEOのAlex, 500startups Japan のトップに就任したJames等、多忙なスケジュールの合間を塗って駆けつけてくれている。単なるイベントではなく、彼らの好意に応えるためにも、何かを起こす責任がある。
ところで、いつだったか、ブロゴスかアゴラの記事で、誰かが「民主党の岡田さん」を指して、あの方は本来は「与党」の人だ、と言っていた。だから、発言に「キレがない」と。要するに、政策が自民党と大差なく、そもそも自民党を批判すること自体が難しい。なるほどな・・・と思った。
そういう意味で僕は、基本的に「野党の人生」なんだろうな・・・。一度は与党チックになった気もするが、ドリームビジョンで大コケし、また野党に逆戻り・・・。
でも、それが僕の原動力なのも事実だし、いざ、与党になったら、大変だろう。野党は「批判する」のが仕事かもしれないが、与党は「世の中」を「治める」必要がある。安倍さんも大変なわけだ。
でも、少数政党として、連立与党の一角になってみたい気もする。一生に一度ぐらいは。
来月で53歳。あと5年したら、58歳・・・。
今年は、シリコンバレーで、とある大きなことをしよう思っている・・・。準備はまだまだこれからだけど、まあ、書いてしまおう。そうすれば、引っ込みがつかないし、「予言は自己実現する」というからね・・・。
追伸:ブログの写真は、ちょうど10年前。さすがに若い。そろそろ代えないと・・・。
この期に及んで雇用を守れ・・・。痛みを覚悟せず、改革ができるというのだろうか?
「新しい産業」に羽ばたかせてあげる良い機会だ!という考え方はできないのか?何とも情け無い、と思うのは、僕だけだろうか?
その大阪も少しずつ変わってきた。関西の雄、阪急電鉄の高岸さんという方は今から5年ちょっと前、とあるセミナーで知り合ったAllen Miner(サンブリッジ創業者)をあの手この手で誘惑?し、阪急の古いビルを利用して、梅田にインキュベーションオフィスを立ち上げた。そして、2015年3月には、2億円と金額は小さいが、僕たちと一緒にファンドまで立ち上げた!阪急電鉄にとっては前代未聞(前例はない)のことらしい。大組織も、本当に何かを変えたいと思う「熱い」想いをもった一人の人間がいれば変えられる、ということだ。
また、阪急関連の公益財団法人 都市活力研究所の大谷さん(一児の母)は、財団の仕事として、Innovation Weekend World Tour を応援してくれている。お嬢さんの面倒を見てもらうべく、実家のお母さんを呼び寄せてまで、New York, London, Paris, Boston, Singapore, Berlin・・・と同行してくれており、事実上、運営スタッフの一員である。彼女のエネルギーが、Ripple effect をもたらすことを期待したい。
今年のHackOsakaでは、ソフトバンクも出資する tokopedia, founder & CEO, William、弊社の投資先でもあるPeatix Co-founder 竹村さん、「ユニコーン(時価総額1Billion USD以上の未公開企業)」の一社であるWeWorkのDaniel, 欧州を代表するシード・アクセラレーター startupbootcamp, Co-founder &CEOのAlex, 500startups Japan のトップに就任したJames等、多忙なスケジュールの合間を塗って駆けつけてくれている。単なるイベントではなく、彼らの好意に応えるためにも、何かを起こす責任がある。
ところで、いつだったか、ブロゴスかアゴラの記事で、誰かが「民主党の岡田さん」を指して、あの方は本来は「与党」の人だ、と言っていた。だから、発言に「キレがない」と。要するに、政策が自民党と大差なく、そもそも自民党を批判すること自体が難しい。なるほどな・・・と思った。
そういう意味で僕は、基本的に「野党の人生」なんだろうな・・・。一度は与党チックになった気もするが、ドリームビジョンで大コケし、また野党に逆戻り・・・。
でも、それが僕の原動力なのも事実だし、いざ、与党になったら、大変だろう。野党は「批判する」のが仕事かもしれないが、与党は「世の中」を「治める」必要がある。安倍さんも大変なわけだ。
でも、少数政党として、連立与党の一角になってみたい気もする。一生に一度ぐらいは。
来月で53歳。あと5年したら、58歳・・・。
今年は、シリコンバレーで、とある大きなことをしよう思っている・・・。準備はまだまだこれからだけど、まあ、書いてしまおう。そうすれば、引っ込みがつかないし、「予言は自己実現する」というからね・・・。
追伸:ブログの写真は、ちょうど10年前。さすがに若い。そろそろ代えないと・・・。
それでも、New York が好きな理由。
10ヶ月ぶりの New York。初めてこの街を訪れたのは、1986年2月。大学4年生の時だった。不良?外国人が集まる東京のバーで知り合ったアメリカ人(当時は学生)の友人宅に約1ヶ月泊めてもらって、昼夜なく、マンハッタンの街を遊び歩いた。あれから、29年。かれこれ20回以上、この街を訪れている。
New Yorkの魅力は大きく2つ。ひとつは、よそ者を受け入れること。この街には「外国人」という概念が存在しない。世界中からユニークで魅力的な人間が集まってくる。挑戦者は誰でも歓迎する。但し、ビジョンと野心を持っていない人間には厳しい街でもある。
2つ目は、上記と重複するが、その独特なカルチャー。ここ数年は仕事柄、シリコンバレーの方が行く機会が多いが、New York には、その産業的バックグランドのせいで、金融、広告、デザイン、アート、ファッション、リテイル、不動産等、Tech-savvyやGeek以外の人間も受け入れる(むしろその方が多い)多様性がある。
一方、若い頃は NewYork に傾倒していた僕も、ここ数年、Moscow, St. Petersburg, London, Paris, Singapore, Vietnam等、様々な国や都市に行くようになり、London や Paris, St.Petersburg等の魅力を理解するようになったせいか、以前ほど盲目的にNew York にハマっているわけではない。
そのNew Yorkだが、今回の訪問は、僕にとって特別な意味がある。
2011年5月に、ベンチャーナウの竹内さん、ネットエイジの西川さんと一緒に始めたピッチイベント「Innovation Weekend」を、初めて、ここNew York で開催する。異国の地で、尚且つ、英語で、僕たちがイベントを主催するのである。1986年に初めて New York に来た時、どうしてそんなことが想像できただろうか?
お陰様で20社以上のスタートアップがピッチへ応募してくれ、その中からベストな7社を選出した。そして、オーディエンスとして登録してくれている人は150人を超えた。
ところで、アメリカに来る時は特に「時差ボケ」が酷い僕は、着いた初日はアポはいれず、いつもはゆっくりと過ごすのだが、50歳を越えて、人生が残り少なくなってきたと感じているからだろうか?今回は初日からアポを入れ、尚且つ、夜は初めて会う方との会食まで入れた。今日も4件、明日は5件、アポを入れている。
僕の話だけでは申し訳ないので、この2日間で学んだことを紹介したい。
New York初日は、Brooklyn にある Made in NY Media Center というインキュベーション施設を訪問した。
たしか、2年前にオープンしたと言っていたと思うが、ここ数年のNew York は、その理由は忘れたが、Film Maker(映画製作者)、シナリオライター、ジャーナリスト、デジタルコンテンツ・クリエイター等が、Los Angeles や San Francisco等に流出してしまう傾向にあったらしく(一方、I.T.系のスタートアップは物凄い勢いで増えている)、それに危機感を抱いたMichael Bloomberg NY市長が助成金を出し、NY Media Center(クリエイター達のためのインキュベーション)を運営する組織を募集したという。
僕がプロデューサーとして関わっている「大阪GI(Global Innovation)創出支援事業」や、London Tech Cityというスタートアップのムーブメント(僕は London Tech City Global Fellowのメンターを仰せつかっている)とその思想や目的は同じである。
世界中の「都市」が、いかにして若い優秀なタレント(人々)を惹きつけるか?(誘致するか)を競っているということだ。
もうひとつ、Brooklyn Boulders という極めてユニークな施設を訪問した。Bouldersは「大きな岩」という意味で、「屋内ロック・クライミング」施設である。
古い倉庫を改造した施設内には、高いところで、5~6メーターはあろうかという壁が作られており、本格的なロック・クライミングを体験(練習)できる。年甲斐もなく、初めて挑戦してみたが、なんとか初心者コースはクリアできたw。
Brooklyn Boulders は、ボストンにも進出しており、TEDx Bostonの会場にもなっており、最近、注目の施設のひとつらしい。
彼らは、ロック・クライミングを単なるスポーツとして捉えているのではなく、人と人とを繋ぎ、コミュニティを作るための触媒として位置づけている。
例えば、ロープにぶら下がって登るロック・クライミングはペアを組んで行うが、相手が落ちれば命の危険さえあるわけで、それがお互いの信頼感を生み、彼らのメンバー(登録者)の中には、一緒に起業したり、結婚した人達もいるらしい。
NY Media Center で案内してくれた女性が言っていたが、New York では、大手の映画制作会社や広告代理店等に務めていることができる人達でも、様々なバックグランドの人達との出会いと刺激を求め、敢えて、組織を飛び出し、NY Media Centerのメンバーになっている人も少なくないという。
NY Media Center のメンバーも、Brooklyn Boulders のメンバーも「同じ会社」という絆ではなく、別の何かで繋がっている「コニュニティ」を求めているということだ。
そのようなトレンドは東京でも感じらなくもないが、まだまだ「就社」意識が強い日本と、雇用の流動性が高い New York(米国)では社会的バックグラウンドが異なり、また、そもそもが移民の国である米国と日本では、人々が置かれている環境も価値観も異なるということだ。
話は変わるが、ここ数ヶ月、仕事だけでなく、プライベートでも多忙を極めており、とにかく時間がない。
時間に追われている時に、子供に騒がれると、とんでもないことになるという理由で、僕はついつい、次男(3歳5ヶ月)に甘くなる。
長男(小4)は、そのことに気づいており、「お父さんは、◯◯に騒がれるのが嫌で、そういうふうにするんでしょう?」「◯◯が悪いのに、僕のせいにしないでよ」「そんなに甘やかしていたら、◯◯はとんでもない大人になってしまうでしょう」とクレームをつけてくる。彼の主張は正しいことが多い。
次男は、ある意味、賢い人間で、自分の形勢が悪くなると、とにかく「泣く」。そうすれば、自分の主張を聞いてもらえると分かっているのである。
あまりに忙しいせいで、子供たちの教育が疎かになってしまっているのでは、本末転倒である。
New York からiPhoneの「Face Time」で電話をし、子供たちの顔を見れば、時差ボケも飛んで行くし、家族は「血の繋がっているコミュニティ」とも言える。
Innovation Weekend New York の会場スポンサーである「WeWork」もサービスとしてデスクやMTGルーム、Wi-Fi、イベントスペース等を提供しているが、ことの本質は「コミュニティ」であり、みんな一緒に頑張る仲間を必要としているのである。
パーソナルな時代になればなるほど、人々はコミュニティ(自分の帰属場所)を求めるのだろう。
僕たちもNew York のスタートアップコミュニティに溶け込めたらいいな・・・。
New Yorkの魅力は大きく2つ。ひとつは、よそ者を受け入れること。この街には「外国人」という概念が存在しない。世界中からユニークで魅力的な人間が集まってくる。挑戦者は誰でも歓迎する。但し、ビジョンと野心を持っていない人間には厳しい街でもある。
2つ目は、上記と重複するが、その独特なカルチャー。ここ数年は仕事柄、シリコンバレーの方が行く機会が多いが、New York には、その産業的バックグランドのせいで、金融、広告、デザイン、アート、ファッション、リテイル、不動産等、Tech-savvyやGeek以外の人間も受け入れる(むしろその方が多い)多様性がある。
一方、若い頃は NewYork に傾倒していた僕も、ここ数年、Moscow, St. Petersburg, London, Paris, Singapore, Vietnam等、様々な国や都市に行くようになり、London や Paris, St.Petersburg等の魅力を理解するようになったせいか、以前ほど盲目的にNew York にハマっているわけではない。
そのNew Yorkだが、今回の訪問は、僕にとって特別な意味がある。
2011年5月に、ベンチャーナウの竹内さん、ネットエイジの西川さんと一緒に始めたピッチイベント「Innovation Weekend」を、初めて、ここNew York で開催する。異国の地で、尚且つ、英語で、僕たちがイベントを主催するのである。1986年に初めて New York に来た時、どうしてそんなことが想像できただろうか?
お陰様で20社以上のスタートアップがピッチへ応募してくれ、その中からベストな7社を選出した。そして、オーディエンスとして登録してくれている人は150人を超えた。
ところで、アメリカに来る時は特に「時差ボケ」が酷い僕は、着いた初日はアポはいれず、いつもはゆっくりと過ごすのだが、50歳を越えて、人生が残り少なくなってきたと感じているからだろうか?今回は初日からアポを入れ、尚且つ、夜は初めて会う方との会食まで入れた。今日も4件、明日は5件、アポを入れている。
僕の話だけでは申し訳ないので、この2日間で学んだことを紹介したい。
New York初日は、Brooklyn にある Made in NY Media Center というインキュベーション施設を訪問した。
たしか、2年前にオープンしたと言っていたと思うが、ここ数年のNew York は、その理由は忘れたが、Film Maker(映画製作者)、シナリオライター、ジャーナリスト、デジタルコンテンツ・クリエイター等が、Los Angeles や San Francisco等に流出してしまう傾向にあったらしく(一方、I.T.系のスタートアップは物凄い勢いで増えている)、それに危機感を抱いたMichael Bloomberg NY市長が助成金を出し、NY Media Center(クリエイター達のためのインキュベーション)を運営する組織を募集したという。
僕がプロデューサーとして関わっている「大阪GI(Global Innovation)創出支援事業」や、London Tech Cityというスタートアップのムーブメント(僕は London Tech City Global Fellowのメンターを仰せつかっている)とその思想や目的は同じである。
世界中の「都市」が、いかにして若い優秀なタレント(人々)を惹きつけるか?(誘致するか)を競っているということだ。
もうひとつ、Brooklyn Boulders という極めてユニークな施設を訪問した。Bouldersは「大きな岩」という意味で、「屋内ロック・クライミング」施設である。
古い倉庫を改造した施設内には、高いところで、5~6メーターはあろうかという壁が作られており、本格的なロック・クライミングを体験(練習)できる。年甲斐もなく、初めて挑戦してみたが、なんとか初心者コースはクリアできたw。
Brooklyn Boulders は、ボストンにも進出しており、TEDx Bostonの会場にもなっており、最近、注目の施設のひとつらしい。
彼らは、ロック・クライミングを単なるスポーツとして捉えているのではなく、人と人とを繋ぎ、コミュニティを作るための触媒として位置づけている。
例えば、ロープにぶら下がって登るロック・クライミングはペアを組んで行うが、相手が落ちれば命の危険さえあるわけで、それがお互いの信頼感を生み、彼らのメンバー(登録者)の中には、一緒に起業したり、結婚した人達もいるらしい。
NY Media Center で案内してくれた女性が言っていたが、New York では、大手の映画制作会社や広告代理店等に務めていることができる人達でも、様々なバックグランドの人達との出会いと刺激を求め、敢えて、組織を飛び出し、NY Media Centerのメンバーになっている人も少なくないという。
NY Media Center のメンバーも、Brooklyn Boulders のメンバーも「同じ会社」という絆ではなく、別の何かで繋がっている「コニュニティ」を求めているということだ。
そのようなトレンドは東京でも感じらなくもないが、まだまだ「就社」意識が強い日本と、雇用の流動性が高い New York(米国)では社会的バックグラウンドが異なり、また、そもそもが移民の国である米国と日本では、人々が置かれている環境も価値観も異なるということだ。
話は変わるが、ここ数ヶ月、仕事だけでなく、プライベートでも多忙を極めており、とにかく時間がない。
時間に追われている時に、子供に騒がれると、とんでもないことになるという理由で、僕はついつい、次男(3歳5ヶ月)に甘くなる。
長男(小4)は、そのことに気づいており、「お父さんは、◯◯に騒がれるのが嫌で、そういうふうにするんでしょう?」「◯◯が悪いのに、僕のせいにしないでよ」「そんなに甘やかしていたら、◯◯はとんでもない大人になってしまうでしょう」とクレームをつけてくる。彼の主張は正しいことが多い。
次男は、ある意味、賢い人間で、自分の形勢が悪くなると、とにかく「泣く」。そうすれば、自分の主張を聞いてもらえると分かっているのである。
あまりに忙しいせいで、子供たちの教育が疎かになってしまっているのでは、本末転倒である。
New York からiPhoneの「Face Time」で電話をし、子供たちの顔を見れば、時差ボケも飛んで行くし、家族は「血の繋がっているコミュニティ」とも言える。
Innovation Weekend New York の会場スポンサーである「WeWork」もサービスとしてデスクやMTGルーム、Wi-Fi、イベントスペース等を提供しているが、ことの本質は「コミュニティ」であり、みんな一緒に頑張る仲間を必要としているのである。
パーソナルな時代になればなるほど、人々はコミュニティ(自分の帰属場所)を求めるのだろう。
僕たちもNew York のスタートアップコミュニティに溶け込めたらいいな・・・。
彼女は、結婚記念日を憶えていない。
2006年4月から書き続けていたブログを2ヶ月強、更新することができなかった。ここ最近は、1ヶ月にせいぜい1~2回しか書けなかったが、4月5月と1回も書けなかった・・・。単純に忙しくて時間が無かっただけである。
ところで、昨夜帰宅後、妻と口論をした。かなり激しく・・・。原因は決まって次男(2歳4ヶ月)のことだ。今にして思うと、長男(小3)は、手が掛からなかったと思う。
次男は最近、とにかく駄々をこねる。特に最近、お風呂に入らない!と言って泣き喚く。「小児喘息」の彼は、湿度が高くなり気圧が低くなる梅雨や台風シーズンは、かなり辛いらしく、夜もよく眠れない。昨夜は夜中の3時過ぎから4時過ぎまで、ソファーで彼を抱いていた。
妻と僕が口論をする姿を見て、長男は「喧嘩はやめて!」と言って泣き出す。子供は親が喧嘩をするのは、「自分のせい」だと思うのだという。なので、両親の仲が悪い子供は不良になる確率が高くなるのだろう。要するに、自分の存在は悪だと思うということだ(自己の存在を肯定できなくなる)。
長男が生まれた時、僕は42歳、妻は30代だったが、今の僕は51歳、妻も40代になっている。
一言で言えば、子育て、それも「男の子2人」を育てるには、僕たち夫婦はあまりに高齢であり、体力的に無理がある。尚且つ、僕は国内外の出張が多く留守がちであり、妻も仕事をしており、僕は福島県の出身で、妻は東京育ちではあるが両親は既に他界しており、近所に身寄りがいない。
おまけに、妻はメニエル病が再発し、唯でさえ、体調が悪い・・・。
そもそも、僕たちの条件で二人の子供を育てるのは無理があるということだ。
それは分かってはいたが、子供が二人になり、単純に2倍どころではない忙しさになり、僕の仕事は以前に増して多忙を極め、尚且つ前述のとおり、国内出張は毎月、海外出張も2ヶ月に1回のペースである・・・。しかし、体力は如実に衰えている・・・。
僕は、ソファーを蹴飛ばし、大きな声で怒鳴った・・・。長男は大きな声で泣きだした。
でも、そんなことをしても、何も変わりはしない。
眠い目をこすりながら、Innovation Weekend Tokyo の写真をアップロードし、キッチンにあった洗い物をした。
すべてを及第点にするのは無理なので、何かを捨てる必要があるが、仕事ではシリアル・アントレプレナーでいたいし、シードアクセラレーターそれも「グローバル」シードアクセラレーターでいたいし、子供たちにとっては良い父親でいたいし、妻にとっては良い夫でいたい。
話は変わるが、お世話になっている弁護士の古田さんにお招きいただき、ヨットに乗せてもらった時、船上で「充実した人生を送るには、時間とおカネと体力が必要ですね(古田さんは、そのすべてを持っているという意味)」という会話をしたということを妻にしたところ、「平石さんは3つとも無いね・・・」という、なんとも彼女らしいリアクションが返ってきた。
仰るとおりである。
因みに、そういう彼女は、結婚記念日を憶えていない。
拙著「挫折のすすめ」の出版祈念パーティの日は、実は「結婚20周年」の記念日だった・・・。
そういう彼女だから、20年も結婚生活が続いているのである。
「人生はすべて必然」。
ところで、昨夜帰宅後、妻と口論をした。かなり激しく・・・。原因は決まって次男(2歳4ヶ月)のことだ。今にして思うと、長男(小3)は、手が掛からなかったと思う。
次男は最近、とにかく駄々をこねる。特に最近、お風呂に入らない!と言って泣き喚く。「小児喘息」の彼は、湿度が高くなり気圧が低くなる梅雨や台風シーズンは、かなり辛いらしく、夜もよく眠れない。昨夜は夜中の3時過ぎから4時過ぎまで、ソファーで彼を抱いていた。
妻と僕が口論をする姿を見て、長男は「喧嘩はやめて!」と言って泣き出す。子供は親が喧嘩をするのは、「自分のせい」だと思うのだという。なので、両親の仲が悪い子供は不良になる確率が高くなるのだろう。要するに、自分の存在は悪だと思うということだ(自己の存在を肯定できなくなる)。
長男が生まれた時、僕は42歳、妻は30代だったが、今の僕は51歳、妻も40代になっている。
一言で言えば、子育て、それも「男の子2人」を育てるには、僕たち夫婦はあまりに高齢であり、体力的に無理がある。尚且つ、僕は国内外の出張が多く留守がちであり、妻も仕事をしており、僕は福島県の出身で、妻は東京育ちではあるが両親は既に他界しており、近所に身寄りがいない。
おまけに、妻はメニエル病が再発し、唯でさえ、体調が悪い・・・。
そもそも、僕たちの条件で二人の子供を育てるのは無理があるということだ。
それは分かってはいたが、子供が二人になり、単純に2倍どころではない忙しさになり、僕の仕事は以前に増して多忙を極め、尚且つ前述のとおり、国内出張は毎月、海外出張も2ヶ月に1回のペースである・・・。しかし、体力は如実に衰えている・・・。
僕は、ソファーを蹴飛ばし、大きな声で怒鳴った・・・。長男は大きな声で泣きだした。
でも、そんなことをしても、何も変わりはしない。
眠い目をこすりながら、Innovation Weekend Tokyo の写真をアップロードし、キッチンにあった洗い物をした。
すべてを及第点にするのは無理なので、何かを捨てる必要があるが、仕事ではシリアル・アントレプレナーでいたいし、シードアクセラレーターそれも「グローバル」シードアクセラレーターでいたいし、子供たちにとっては良い父親でいたいし、妻にとっては良い夫でいたい。
話は変わるが、お世話になっている弁護士の古田さんにお招きいただき、ヨットに乗せてもらった時、船上で「充実した人生を送るには、時間とおカネと体力が必要ですね(古田さんは、そのすべてを持っているという意味)」という会話をしたということを妻にしたところ、「平石さんは3つとも無いね・・・」という、なんとも彼女らしいリアクションが返ってきた。
仰るとおりである。
因みに、そういう彼女は、結婚記念日を憶えていない。
拙著「挫折のすすめ」の出版祈念パーティの日は、実は「結婚20周年」の記念日だった・・・。
そういう彼女だから、20年も結婚生活が続いているのである。
「人生はすべて必然」。
「インフルエンザ」と「中耳炎」。
数年前から悩まされている頭痛と吐き気が同時に起こる症状が、先週の木曜日の朝から発生した。
妻に言わせると15~16年前から発生しているらしいが、サンブリッジの仕事をし始めた2011年の夏頃から頻繁に起こるようになった。
今までに何度もCTやMRIの検査をしているが、脳に異常は認められない。
頭痛というよりは、左目の奥が痛くなるため、眼圧が高くなっているのではないか?という疑いがあり、眼科で眼圧検査をしてもらっても、異常はない。
ここ最近は、年末、年始そうそう、2月中旬、そして今週の木曜日と、かなり頻繁に起こっている。
原因が分からないのが不安だが、10年以上前からお世話になっている整体師の方に言わせると、僕の身体はとても繊細にできており、普通の人なら感じないレベルのことでもストレスになっているらしい。
特に、眼の神経の緊張は、他に見たことが無いレベルだという。
僕の仕事は、海外出張が多く(大阪出張もある)、また、子育てをするには夫婦二人とも高齢で、身体に負担が掛かっているのは間違いない。
先週は妻が仕事で遅くなる日が2日あり、僕が2人の子供たちの面倒を看ていたのだが、まだ2歳の次男は夜中に起きることが多く、たまたま2日とも夜中に起こされてしまい、睡眠不足だった。
普段なら大丈夫だったかもしれないが、10日間のシリコンバレーとボストン出張から帰国して間もなく、そもそも疲れが溜まっていたかこともあったかもしれない。
金曜日の夜、23時過ぎに目を覚ますと、ようやく頭痛と吐き気が治まっており、残っていた饂飩を食べた。
久しぶりにテレビをつけると、あれから3年が経った東北の大震災と津波により、大きく人生が変わってしまった人たちの今に至る日々を紹介していた。
地震直後、母親と子供たちを自宅に残し、妻の行方を探しに行った男性は、その間に襲ってきた津波によって3人の子供たちを亡くしてしまった。
彼は、何のために生きていけばよいのか?が分からなくなった。そして、自分を責め、また、妻も彼を責めた。
2年後と言っていたと思うが、家具を作る仕事をしていた彼のところに、小学校か保育園かから、子供たちのために本棚を作って欲しいという依頼があったそうだ。
久しぶりに作った家具を子供たちが喜んでくれる姿を見て、彼はまた、仕事をする気持ちになったという。
他にも津波で大切な人たちを亡くした方々が紹介されていたが、彼らに共通しているのは、経験した人でなければ理解できない苦難を乗り越えようとする強さだった。
ところで、昨日の朝から長男が発熱した。
夕方になって熱が38.5度になり、病院に連れて行ったが、38度以上の熱が出てから10時間ほど経たないと反応が出ないと言われ、インフルエンザの検査はせずに帰宅した。
とにかく痛いので、何度も検査するのは可哀想でしょうということだった。
次男に移るといけないと思い、昨夜は長男をひとりで別の部屋に寝かせたが、耳が痛いと言って、夜中に何度も起こされた。
今朝、検査をして分かったが、インフルエンザと中耳炎を併発していた。
そんなことも、家族が無事であればこそのことであり、こういう「日常こそが人生そのもの」だということだ。
神様に感謝をすると共に、毎日を大切にしよう。
iPhoneからの投稿
妻に言わせると15~16年前から発生しているらしいが、サンブリッジの仕事をし始めた2011年の夏頃から頻繁に起こるようになった。
今までに何度もCTやMRIの検査をしているが、脳に異常は認められない。
頭痛というよりは、左目の奥が痛くなるため、眼圧が高くなっているのではないか?という疑いがあり、眼科で眼圧検査をしてもらっても、異常はない。
ここ最近は、年末、年始そうそう、2月中旬、そして今週の木曜日と、かなり頻繁に起こっている。
原因が分からないのが不安だが、10年以上前からお世話になっている整体師の方に言わせると、僕の身体はとても繊細にできており、普通の人なら感じないレベルのことでもストレスになっているらしい。
特に、眼の神経の緊張は、他に見たことが無いレベルだという。
僕の仕事は、海外出張が多く(大阪出張もある)、また、子育てをするには夫婦二人とも高齢で、身体に負担が掛かっているのは間違いない。
先週は妻が仕事で遅くなる日が2日あり、僕が2人の子供たちの面倒を看ていたのだが、まだ2歳の次男は夜中に起きることが多く、たまたま2日とも夜中に起こされてしまい、睡眠不足だった。
普段なら大丈夫だったかもしれないが、10日間のシリコンバレーとボストン出張から帰国して間もなく、そもそも疲れが溜まっていたかこともあったかもしれない。
金曜日の夜、23時過ぎに目を覚ますと、ようやく頭痛と吐き気が治まっており、残っていた饂飩を食べた。
久しぶりにテレビをつけると、あれから3年が経った東北の大震災と津波により、大きく人生が変わってしまった人たちの今に至る日々を紹介していた。
地震直後、母親と子供たちを自宅に残し、妻の行方を探しに行った男性は、その間に襲ってきた津波によって3人の子供たちを亡くしてしまった。
彼は、何のために生きていけばよいのか?が分からなくなった。そして、自分を責め、また、妻も彼を責めた。
2年後と言っていたと思うが、家具を作る仕事をしていた彼のところに、小学校か保育園かから、子供たちのために本棚を作って欲しいという依頼があったそうだ。
久しぶりに作った家具を子供たちが喜んでくれる姿を見て、彼はまた、仕事をする気持ちになったという。
他にも津波で大切な人たちを亡くした方々が紹介されていたが、彼らに共通しているのは、経験した人でなければ理解できない苦難を乗り越えようとする強さだった。
ところで、昨日の朝から長男が発熱した。
夕方になって熱が38.5度になり、病院に連れて行ったが、38度以上の熱が出てから10時間ほど経たないと反応が出ないと言われ、インフルエンザの検査はせずに帰宅した。
とにかく痛いので、何度も検査するのは可哀想でしょうということだった。
次男に移るといけないと思い、昨夜は長男をひとりで別の部屋に寝かせたが、耳が痛いと言って、夜中に何度も起こされた。
今朝、検査をして分かったが、インフルエンザと中耳炎を併発していた。
そんなことも、家族が無事であればこそのことであり、こういう「日常こそが人生そのもの」だということだ。
神様に感謝をすると共に、毎日を大切にしよう。
iPhoneからの投稿
「友人の訃報」と「スティーブ・ジョブズ」
このエントリーは、2/14(金)、バレンタインデーに途中まで書いたまま、続きが書けずにいたものだ。
大阪市の仕事でシリコンバレーにきており、こちらの時間で今日(2/28)、無事に一週間のプログラムが終わり、ホテルの部屋で続きを書くことにした。
(ここからが続き)
先週金曜日、法政大学経営大学院で今年度の最終発表会の最中、facebook メッセージで友人の訃報が届いた。
自分と同年代の友人が亡くなるというのは、さすがにショックだった。
彼女とは、仕事を通じて知り合った別の女友達を介して知り合い、その彼女とは、某商社の仕事を通じて知り合った。
そして、その仕事の担当者だった男性と僕を含めた4人での付き合いが始まった。
僕がインタースコープというネットベンチャーを創業した頃で、全員30代だった。
その4人の集まりを僕は勝手に、Tokyo 30s と称していたが、時間と共に、Tokyo30s40sになり、Tokyo40sになり、Tokyo40s50sになり、遂にTokyo50sになった矢先だった。
三流大学にしか行けなかった僕は、愛校心の欠片も、大学時代の友人も殆どなく、この4人での付き合いは、とても大切なものだった。
その中の1人がいなくなったということだ。
そう。人間は必ず、いつかはこの世を去る日が来る。
ところで、僕のブログを読んでくれている方々の中にも、故スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学でのスピーチをYOU TUBE で見たことがある人がいると思う。
毎朝、鏡の前に立ち、もし、今日が人生で最後の日だったとしたら、今日の予定は本当にやりたいことだろうか?と思って毎日を過ごすうちに、本当に人生最後の日がやってくる。
「これは、人生最後の日にやりたいことではない」と感じることが多くなったら、そろそろ何かを変えるべき時だというサインである。とジョブズが言っていた。
35歳になった時、20歳から今までの時間がもう一度、僕の人生に訪れると、僕は50歳になるという事実に気づき、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を覚えたことを今でもよく憶えているが、昨年の3月30日、ついにその日が現実となった。
今の仕事をバリバリやれるのは、あと10年である。
冗談でも何でもなく、僕は9年1か月後、60歳になる。
でも、ここ数年で、確実に、僕が「なりたい」と思っていた自分に近づいていっていることを実感している。
60歳になった時、それまでの自分を自分で褒められるように(有森裕子さんの言葉)、周囲に遠慮するのはやめて、自分に正直に生きていこうと思う。
子供たちのためにも、活躍している父親の姿を見せたいからね。それが最大の教育だと思うから。
そして、それが今の僕の最大のモチベーションである。
親しい友人の訃報で、ジョブズのスピーチを思い出した。
iPhoneからの投稿@シリコンバレー
大阪市の仕事でシリコンバレーにきており、こちらの時間で今日(2/28)、無事に一週間のプログラムが終わり、ホテルの部屋で続きを書くことにした。
(ここからが続き)
先週金曜日、法政大学経営大学院で今年度の最終発表会の最中、facebook メッセージで友人の訃報が届いた。
自分と同年代の友人が亡くなるというのは、さすがにショックだった。
彼女とは、仕事を通じて知り合った別の女友達を介して知り合い、その彼女とは、某商社の仕事を通じて知り合った。
そして、その仕事の担当者だった男性と僕を含めた4人での付き合いが始まった。
僕がインタースコープというネットベンチャーを創業した頃で、全員30代だった。
その4人の集まりを僕は勝手に、Tokyo 30s と称していたが、時間と共に、Tokyo30s40sになり、Tokyo40sになり、Tokyo40s50sになり、遂にTokyo50sになった矢先だった。
三流大学にしか行けなかった僕は、愛校心の欠片も、大学時代の友人も殆どなく、この4人での付き合いは、とても大切なものだった。
その中の1人がいなくなったということだ。
そう。人間は必ず、いつかはこの世を去る日が来る。
ところで、僕のブログを読んでくれている方々の中にも、故スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学でのスピーチをYOU TUBE で見たことがある人がいると思う。
毎朝、鏡の前に立ち、もし、今日が人生で最後の日だったとしたら、今日の予定は本当にやりたいことだろうか?と思って毎日を過ごすうちに、本当に人生最後の日がやってくる。
「これは、人生最後の日にやりたいことではない」と感じることが多くなったら、そろそろ何かを変えるべき時だというサインである。とジョブズが言っていた。
35歳になった時、20歳から今までの時間がもう一度、僕の人生に訪れると、僕は50歳になるという事実に気づき、ハンマーで頭を殴られたような衝撃を覚えたことを今でもよく憶えているが、昨年の3月30日、ついにその日が現実となった。
今の仕事をバリバリやれるのは、あと10年である。
冗談でも何でもなく、僕は9年1か月後、60歳になる。
でも、ここ数年で、確実に、僕が「なりたい」と思っていた自分に近づいていっていることを実感している。
60歳になった時、それまでの自分を自分で褒められるように(有森裕子さんの言葉)、周囲に遠慮するのはやめて、自分に正直に生きていこうと思う。
子供たちのためにも、活躍している父親の姿を見せたいからね。それが最大の教育だと思うから。
そして、それが今の僕の最大のモチベーションである。
親しい友人の訃報で、ジョブズのスピーチを思い出した。
iPhoneからの投稿@シリコンバレー