昔の青春アドベンチャーのラジオドラマ「天使の卵-エンジェルス・エッグ」がYouTubeにアップされていたので聴きました。放送は1994年4月(全10回)。脚色が『『ラビリンス』』の湯本香樹実。出演は萩原聖人 、洞口依子ほか 。


とても良かったのですが、最終回の第10回を聴こうとしたら、それだけいくら探してもYouTubeにはありません。仕方なく、図書館で文庫を借りて、最後の部分だけ読みました。文庫本の最後にある村上龍の解説が良かったので、その一部をアップしておきます。


この小説は第六回小説すばる新人賞の受賞作である。「⋯⋯よくこれだけ凡庸さに徹することができると感嘆させられるほどだが、ひょっとすると、そこがこの作家の或る才能かも知れないのだ。⋯⋯(選考委員の一人、五木寛之氏)」。


『天使の卵』は、極めて古風な構造の物語を利用していて、そのために登場人物達も類型にとどまっているかのような印象を受ける。『天使の卵』の登場人物達はみなそれぞれに傷を負っているが、その傷の負い方にしても五木氏の指摘通り凡庸である。驚くほど、凡庸だ。凡庸というのは新しさに欠ける、ということでもある。ただ、人間はそれほど変化してしまうものだろうか? 


ファッションや好みの音楽や言葉遣いやへアスタイルは変わるが、涙を流すほどうれしいことや悲しいことの原因や由来は大昔からほとんど変わっていないのではないか。新しい誰かに出会う、出会った瞬間に心がときめく、好きになる、相手にも好きになって欲しいと思う、相手から尊敬されたいと思う、相手にふさわしい自分でありたいと思う、相手のすべてを知りすべてを受け入れたいと思う、お互いに好きなのがわかると相手の現実やバックグラウンドが姿を現し不安になる⋯⋯そういったメカニズムそのものはほとんど変わっていないと思う。


作者は、この国の「新しい文化」などというものがすべてファッションにすぎないとわかって、あえて古風な物語の構造を選んだのではないだろうか。ダンテからジョイスまで、三島や谷崎を含めて、アヴァンギャルドというものはリアリズムと凡庸の先端にしか存在しない。選考委員の四氏がこの小説に対して好感を抱いたのは、凡庸なリアリズムから出発することをその志とした作者の姿勢によるものだと思う。