どうも寄り道ばかりで、執筆が進みません。原因は、わかっているのですが。一言で言えば、やる気が起きない。いわゆるスランプです。ということで、今日も道草です。


今日はYouTubeでエピクロス派とストア派の勉強をしました。簡単に言えば、エピクロス派は「苦痛を避け、穏やかな快楽を求める」ことで幸福を追求する。ストア派は「徳を実践し、理性で運命を受け入れる」ことで幸福を追求する。


私が共感するのは、エピクロス派です。エピクロス派の生き方は、派手な成功や名声を追わず、シンプルな食事・友人との会話・適度な休息を大切にして、苦痛を避ける工夫する「賢い」普通の人の生活です。 


ただし、普通の人は「欲しいものは欲しい」と流されがちですが、エピクロス派は欲望をきちんと分類します。
「自然で必要なもの」(空腹を満たす・寒さをしのぐなど)だけを満たし、それ以外(過剰な名声・贅沢・権力など)は積極的に手放します。つまり「ただ流されて生きている」状態とは違います。



エピクロス派には「ラテ・ビオサス(隠れて生きよ)」という言葉があるそうで、政治や公の場での目立つ生き方をあえて避けます。特別な徳を極めるストア派のような、英雄的・義務的な生き方とは違う意味で、かなり意識的に節度のある生き方が求められます。


なお、エピクロス派は、比較的平和で、ある程度生活が安定しているときに特にうまく機能します。


一方のストア派は、逆境・喪失・理不尽・無力感に強く向き合うために設計されています。「穏やかな日常」だけでは説明できない苦しみの中で、精神を保つ方法を示しているのです(過去への後悔や未来への不安にとらわれず、意図的に「今ここ」の現実に意識を向ける《マインドフルネス》に通じる)。


両者とも「過度な欲望や外部への依存から自由になる」ことを目指す点では共通しています。 ただストア派はさらに徹底して、 自分の判断と行動だけが本当に自分のもので、それ以外(他人の評価、健康、財産、死期など)は基本的に「自分の外」と切り分けます。


この「コントロールの境界線」をはっきりさせることで、無力感や焦りをかなり減らせる。特に責任ある立場にいる人や、強い感情に振り回されやすい人には、この枠組みが実用的に感じられるそう。


いずれにせよ、子どもに「勉強とスポーツ、どっちが大事?」と聞かれたら、「どっちも、一生懸命やりなさい」と文武両道を教えねばならないのと同じで、エピクロス派、ストア派どっちがを語っている暇があったら、自分自身がその両方を極めることに時間を割くべきかとは思います。


厳密に言えば、完全な両立は無理でしょう。
でも「平静を大切にしつつ、必要なときには自分の軸を曲げない」という生き方は、十分に可能なはず。結局のところ、学派名にこだわる必要はあまりないと思います。



「自分は今、何を大切にして生きたいのか」を問い続けて、使える道具は両方から借りる——それが一番賢い態度です。具体的には、


1. これは自分でコントロールできることか?(ストア派)
→ できないことなら、受け入れるか、影響を最小限にする方向で考える。 


2. この欲望・感情は「自然で必要なもの」か?(エピクロス派)
→ 必要でないなら、手放すか、小さく満たす。 


3. この選択は、長期的に自分の平静と誠実さを損なわないか?(両方)
→ 損ないそうなら、別のやり方を探す。 


この3つを習慣にすると、エピクロス的な穏やかさとストア的な軸の両方を保てそうです。




今日はXでハイデガーの『形而上学入門』という本を初めて知りました。本来は『精神現象学』をやらねばならないのですが、私の場合、同じものばかりやっいると、頭が拒否反応を起こすので、気分転換にちょっと勉強しました。


彼によれば、人間はあらゆる文で「ある」という語を使いながら、その「ある」が一体何を意味しているのかを、哲学はまったく問おうとしなかった。この自明性を突き破ることが、この本の課題だそう。


そして、西洋哲学の歴史の中で「存在」という概念が、実は四つの対抗概念との区別によってのみ、その内実を保ってきたことを示します。それを三元論に照らして説明すると、以下のようになります(「存在」とは図の左下の③個別のこと。それと接する四つのベクトル♧♥♡★が四つの対抗概念である)



1. 存在 対 生成(Werden)――パルメニデスが「あるものはある、ないものはない」と説いたのに対し、ヘラクレイトスは万物の流転(♧偶然性)を説いたとされる、古典的な対立。個別が特殊化されるたびに理由なき残余が残る 。


2. 存在 対 仮象(Schein)――本当にあるもの(実在)と、単に見かけ上そう見えるだけのもの(仮象・♥非実在性)との区別。プラトンのイデア論の背景にある発想。特殊が個別に適用され、実在性を奪う。


3. 存在 対 思考(Denken)――客観的に存在するもの(♡実在性)と、それを考える主観の思考内容との区別。近代の主観-客観図式。個別が普遍に実在性を与える(成功)


4. 存在 対 当為(Sollen)――現に「ある」ものと、「あるべき」もの(理想・★不可能性)との区別。カント的な事実と当為の区別。普遍が個別を包摂しようとして失敗する 。


ハイデガーの狙いは、これら四つの区別がそれぞれ固有の歴史的起源を持ち、しかもそれらが積み重なることで、「存在」という語の本来の重み・驚くべき性格が次第に平板化され、当たり前のものとして扱われるようになっていった。これは西洋哲学の伝統的な哲学史理解そのものへの異議申し立てです。


つまり、フッサールが(「ない」ものとして)カッコに入れた《存在》を、逆にハイデガーは過去の覆いから取り戻し「開示」すべきと主張し、現象学をその方法として位置付けた。だが彼が言う四つの覆い(図の♧♥ ♡ ★)のうち、♧生成と♡思考は(覆いではなく)開示の手段の間違いだと思う。


はっきりしないが、ハイデガーもまた「本来の生成や思考は、存在の開示そのものである」と考えているふしがある。しかし、伝統的な形而上学(特にプラトン・アリストテレス以降、そして近代近代哲学)において、これら2つが「存在を固定化し、覆い隠す道具」へと変質してしまった。


本来、(ヘラクレイトス的)生成とは、存在が立ち現れ、顕現していく動的なプロセス(Physis)そのもの。だが、プラトン以降の形而上学は、「真の存在(イデア)」を「不変で恒常的なもの」と定義した。その結果、「生成・変化するもの」は「真の存在ではない不完全なもの」として退けられ、存在は「常にそこにあるもの(恒常的存在)」へと狭められてしまい、存在の動的な開示を覆い隠す原因となったのだろう。


また、初期ギリシャにおける思考(Noein)とは、立ち現れてくる存在を「受け入れ、保ち、開示に与すること」だった。しかし、デカルト以降の近代哲学に至ると、「思考(主観)」が開示の場ではなく、「存在者を認識・測定・支配するための論理(Logos/悟性)」へと変質し、思考が存在の「判断基準(表象)」となり、存在は「人間の思考の対象」へと格下げされた。それにより、存在そのものの深みや非隠蔽性が覆い隠されたのだと思う。


結局、この生成と思考を、再び存在の動的な開示(Aletheia)の地平へと奪い返すこと」こそが、『形而上学入門』で行おうとした試みだったに違いない。


しかし、その試みは挫折し、彼は「転回」する。 後期ハイデガーは、人間の側から存在を解体・開示しようとするのではなく、人間はむしろ存在の呼びかけに耳を澄ませて待つ「放下」の態度が必要であるとし、詩や芸術を通じた静かな思索へと移行した。彼が意図した形で西洋の思想全体を古代ギリシャの源流へと一気に引き戻すことはできませんでした。


ただ、その「方法論」は次世代の哲学者たちに強力な武器を与える。特に、ハイデガーが唱えた「歴史的に形成された概念の解構」を、フランスの哲学者ジャック・デリダがフランス語で翻訳・発展させたのが「脱構築(Deconstruction)」です。


デリダは、ハイデガーの存在論をさらに推し進め、西洋哲学全体に潜む「音声中心主義」や「二項対立」を鮮やかに解体していきました。ハイデガーが形而上学の「覆い」を暴露したことによって、ポスト構造主義や現代の解釈学(ガダマーなど)が誕生する土壌が完全に整えられたという意味で、彼の試みは圧倒的な成功を収めたのです。


一日潰してしまったが、貴重な学びではあった。執筆中の本に活かせれば良いのだが。

「感覚的確信」がやっと仮完成しました。一月くらいかかったでしょうか。このまま「知覚」に進もうと思ったのですが、もし大きな過ちがあれば早めに起動修正しなければならないので、これまでの「序論」(約6千字)と「感覚的確信」(約5千字)をAIにチェックしてもらいました。


すると、面白い結果が。ClaudeとGeminiは訂正がほとんど無かったのですが、ChatGPTは「これはヘーゲルと違う」といった訂正が山ほど指摘されました。いろいろと特徴があるのですね。少しずつ三つの使い分けが分かってきました。


50日プロジェクトは1週間が終了。残りの「知覚」「悟性」「承認を求める自己意識」を、ひとつ2週間で終わらせられたら出来ますが、今のペースではとても無理です。今のペースだと、4週間として12月上旬になります。


しかも、ChatGPTの訂正は、「序論」と「感覚的確信」で各々30箇所ずつあります。これだけでも、結構時間がかかりそうです。


とはいえ、毎日少しずつは進んでいるので、いつかは完成するでしょう。とりあえずは、50日プロジェクトの残り43日でどこまでやれるか、頑張るしかありません。


(AIで作成した表紙イメージであり、中央に記載の図などはデタラメです)

脳がフル回転できるのは、1日に3〜4時間。私の歳だと、2時間程度かもしれません。最近は哲学をしていても、すぐに疲れてしまいます。


そんなとき、若いころに聞いているアバド&ウィーン・フィル版「悲愴」を聴くと、脳がリフレッシュされることに、最近気がつきました。


もはやダッシュする元気はありませんが、これで長期戦は何とかなるかもです。

 

 

 

熊本をはじめ全国で大きな地震があり、次に千葉や北陸など各地で大雨。そして、先日の本田教授の「遺伝的要因」発言。ホント、世の中いろいろあるなぁと思っていたら、ついに私の職場でも。


こんな出来事、長いサラリーマン人生でも初めてです。私自身ではなく同僚のことですが、今後どうなるのやら。


昨日のブログで、今やっている『精神現象学』のリメイク本の執筆を「あと3年やったみるか」と書きました。あと3年というと、とても長く感じるますが、振り返った過去3年など、あっという間な気がします。なぜでしょう?


まず、未来を頭の中でシミュレーションして構築する作業は、認知的な負荷が高いため、結果として密度の濃いものとなります。また、注意を向ければ向けるほど、主観的な時間は長く感じます。。


一方、過ぎ去った過去へは、普通はそれほど注意は払わないでしょう。また3年という膨大な時間も、振り返る時は数個の「意味のある点」へと圧縮されてしまいます。だから、あっという間だったように感じられるのです。


しかし、13年、4800日もブログ(日記)を書いていると、その圧縮がありません。書き始めたのは、息子が二十歳になった年で、これからは自分自身の人生を生きようと思っていたのでしょうか。まぁ大したことは書いていませんが、結果的にとても良かったと思います。



『精神現象学』とは何か。100日間取り組んだ今、この本を一言で表現するなら、こうなります。


「これが真理だ」と、つねに何かを主語として固定しようとする意識が、その固定に何度も失敗し、最後には、真理とは固定された実体ではなく、自らを他者化し、その結果を経験し、再び自分へと帰ってくる主体の運動そのものだと知るまでの物語。


『精神現象学』は深い。しかし、私の三元論も負けてはいない。①普遍と③特殊を結ぶ(下図の右側斜めの)ベクトルが「言葉」の世界だということは以前から気づいていましたが、最近気がついたことは、①普遍と②個別を結ぶ(下図の左側斜めの)ベクトルが「一(非言語)の世界」だということ。では、②個別と③特殊を結ぶベクトルは何か?そんなことを最近は考えています。


100日プロジェクトは、『精神現象学』の本の商業出版を目指す短期プロジェクトでしたが、やっているうちに内容自体に関心が移ってしまい、最後の1ヶ月はほとんど進みませんでした。


哲学史上最難関と言われる『精神現象学』を、誰でも読めるようにする。このプロジェクト自体はとても意味があるので絶対に実現しますが、それは私のような原書を読んだこともない素人が、短期間でやるのはあまりにも無理だということを、今更ながら実感しています。


でも100日でこれだけできたのだから、1000日あれば、良いものが完成するだろう。あと3年やってみるか。そんな気分に最近はなっています。




数日前からXで哲学バトルが行われていて、私も本日ちょこっとだけ参加しました(参戦と呼ぶほどではありません)。


有名な哲学者に認められでもしたら、出版社を紹介してもらえるのではないか。また編集者が私のレスに目を留めてくれれば⋯⋯。そんな下心もあって、これからは少しずつXのポストを増やしていこうと思います。


ただ、そんなことをしていたら、今日は思ったほど執筆が進みませんでした。このままあっという間にまた50日が過ぎてしまうのではないか。そんな恐怖が、早くも出てきました。



今月も丸亀製麺でスタート。それにしても、毎月一日の半額デー以外は全く行かなくなってしまいました。高松に長くいた者としては、セルフうどんが懐かしいとはいえ、定価であのうどんはもういいかという感じです。


さて偶然にも、昨日録画したBSの再放送ドラマが『ラーメン刑事VSさぬきうどん』 という2時間ドラマでしたが、全くの初見。初めて見ました。


懐かしい場所がたくさん出てきましたが、2005年の作品なので、まだ私が高松に住んでいたときです(ただ、あの頃は松本清張のドラマ以外は観ていませんでした)。


南田洋子さんが出ていましたが、彼女は2004年頃から認知症の症状が表れ始め、台詞が覚えられなくなるほど悪化し、2006年にひっそりと引退しました。ほぼ最後の作品といえますが、良い演技をされていました。


「さか枝」や、よく行っていた「一竜」というラーメン店も出てきました。人生で一番幸せな時代だったので、あの日に帰りたい気分になりました。








月初に天城に行ったのも、随分と前の気がします。今月も仕事以外は哲学ばかりでしたが、100日プロジェクトは本日が最終日でした。


さて進捗率ですが、甘く採点して70%ほどでしょうか。したがって、あと50日だけ延長し、10月後半より出版社へのアプローチを開始したいと考えています。


明日から、再スタートです。