今月は、転機の月でした。これまで4〜5年やってきたオリジナル哲学(Kindle出版)を一時ペンディングとし、ヘーゲルの『精神現象学』についての本の商業出版を目指すと決めたからです。


とはいえ、原書(翻訳)はおろか、解説本すら読んだことがないのですが、だからこそ本に囚われずに、ヘーゲルになりきって新釈の『精神現象学』が書けるのではないか。そんな風に思っています。


昨日も書きましたが、もう失敗は許されません。でも、根拠のない自信もあります。とりあえず、初稿を8月末(あと92日)に仕上げて、9月からは商業出版してくれる会社を探しながら仕上げていきたいと思っていますが、どうなるでしょうか。



我ながら、楽しい人生。これからも、楽しんでいこう!

昨日再放送された「マッサン」第108話で、正春は出資者を欺いてウイスキー造りを始めるという賭けに出ました。もう、失敗は許されません。


失敗が許されない。こんな覚悟でやったことといえば、私の人生では子育てだけです。


でも、今度の『超訳 ヘーゲルの精神現象学』(仮タイトル)だけは、そんな気持ちになっています。そろそろ本気を出さねば。


生の現実をそのまま所有することは決してできない。世界を認識し、誰かと関係性を築くためには、『言葉』をどうしても媒介にしなければならない。 


この言葉にできない生の現実。概念や言葉で完全に還元できない、個人の生々しい在り方そのものこそ、「実存」と呼ばれるものだろう。


ハイデガーやサルトル的な実存主義では、実存とは「本質に先立つもの」「投げ込まれたままの状態」「言葉では言い尽くせない不安や自由の感覚」といった、前言語的・前反射的な生のあり方を含む。


一方で、現実は「言葉によって作られた結果」として存在し、理想は「言葉によってしか作れないため、永遠に未完成のまま」存在する。言葉が「容器」であり、理想はその容器の中にしか生きられない。 


ゴルフで言えば


実存:スイングした瞬間の、言葉にできない身体感覚・時間の流れ・緊張・無意識のすべて


理想:完璧なスイング像、「こう打てばこう飛ぶはず」という言語的・イメージ的なモデル


現実:実際に言葉で語られ、他人にも共有可能な「右に曲がった」という結果つまり理想は、実存と現実の間で最も言葉に依存している存在です。 


皮肉なことに、理想があまりにも言葉でできているからこそ、現実との乖離が常に生まれるのでしょう。


これまで三元論は「理想・現実・快楽」といてきましたが、快楽を実存に変更した方が良いかもしれません。

一週間前のブログに書いたように、図書館でヘーゲルの解説本を2冊借り、右の本から読み始めましたが、すぐに中断しました。 



哲学するとは、イコール書くことです。本を読んでも、哲学することにはあまりならないし、何より何も残りません。


したがって、ある程度の原稿が出来上がり、その段階で読むことにより、その原稿を直す行為が、イコール哲学となると私は考えます。


この前までは、そんな芸当は不可能でした。本を読まずに、つまり何も知らない状態で何万字もの原稿が書けるはずがないからです。でも、生成AIのある今なら、それが可能なのです。


もちろん、生成AIがいきなり書いた原稿なんて、問題だらけ。しかし、うまく指定すれば、それなりのものになります。実際、そうして書かれたような電子書籍がネットにはたくさんあります(Kindle Unlimitedで読まれればラッキーで小銭が入る)。


100日プロジェクトは、目標の8月末まで、あと95日。あと一週間で5万字程度の「叩き台」を完成させるつもりです。

ヘーゲル哲学の研究は、「宇宙の意志」を感じたジェダイが、難関な対象を自らの力に変えながら、銀河全体を舞台に飛び回るような楽しさがある。それはフォースが自らをフォースとして自覚する旅。しかし、「理解したつもり」になると、ダークサイドに堕ちるのでご注意を。




3月頃にNHKで『スター・ウォーズ』 のエピソードⅠからⅥを録画して、今日やっとⅣまで観ました。


『スター・ウォーズ』 は完全なる「お遊び映画」ですが、その時代の観客にとって未知の映像体験を提供したから、成功したのでしょう。


ただ「遊園地のアトラクション」の要素が大きいので、個人的には何度も観る名画ではありません。そこが『バック・トゥ・ザ・フューチャー』との違いです。




私たちは誰もが、過去の景色を見つめながら、見えない未来へと進んでいる(ポール・ヴァレリー)



目的(ヘーゲル哲学の解明)に向かってまっすぐ進むためには、自分の航跡(私の場合は、自分の三元論哲学)をしっかりと見つめること。あとは、目的地に着くと信じて、オールを動かすだけです。

ランチにカレーを食べたいAさんと、とんかつを食べたいBさんが、カツカレーをいっしょに食べるという有名な例え話は、弁証法とは言えません。


理由は、カレーという「概念」が、内的矛盾によって必然的に崩壊してトンカツを求めたのではないから。主体的・実存的選択を導入している時点で、弁証法ではないのです。


初稿完成目標の8月末まで、あと100日



本を書き始めるに当たって、まずはAIに表紙のイメージを作ってもらいました(中央に記載の図はデタラメですが)。タイトルは、『超訳・みんなのヘーゲル精神現象学』とします。

 

仕事もプライベートも色々とあり、無謀な目標かもしれませんが、初稿を8月末(あと101日)に仕上げて、9月からは商業出版してくれる会社を探しながら仕上げていきたいと思っています。

 

 

今月はJ:COM BSで「盲人探偵松永礼太郎」シリーズをやっているので観ています。古谷一行主演の火曜サスペンスにも関わらず、今まであまり観たことがありませんでした。犯人にサイコパスが多いのが、私の趣味ではありませんが、やはり面白いです。第8作「洗脳」では、犯人のこんな独白がありました。 


周りの人々が人間の世界で生きていくのに、自分だけはモノの世界で生きているという感覚。モノを手に入れたら使う。使い終わったら捨てる。それで終わりだ。愛なんかいらない。大事なのは自分の欲望だけだ。


人口の約1%に存在すると言われていて、 犯罪者になる人ばかりではなく、恐怖心の欠如や高い行動力を良い方向に活かして、失敗を恐れずに挑戦し続けることで、経営者、政治家、医師、弁護士などとして社会的成功を収める人もいるとのこと。


哲学的にも、興味深いです。