今日の昼に再放送されたものを初見。私の定義では、名作とは何度でも観られる作品のことなので、これは名作とは言えないのかもしれません。


しかし、平成後期のドラマとしては、ある意味名作なのかも。面白かったです。


菊川 怜(主役:東大卒)

小泉孝太郎(総理の息子)

本田望結(フィギュアの選手)

神田沙也加(聖子の娘)


役ではなく、役者のキャラで見せるドラマでした。



「信用」は、過去の実績といった客観的な《知》を元に、「この人なら大丈夫」と評価すること。


「信頼」とは、人柄や将来性に期待し、無条件に任せたり頼ったりする《感情》的な結びつき。


そして一般的には、過去の信用の積み重ねが信頼につながる。


『精神現象学』の意識の旅をまとめたら、なぜかこうなった。



哲学ばかり(最近そうでもないですが)していると疲れるので、このところはJ:COM-BSで平日の昼に再放送していた『タクシードライバーの推理日誌』で気分転換していました。


ところが、全39作のうち16作を放送したところで終了。喜劇要素の高い後期作品は視聴率が取れるので、BSテレ朝放送用ということでしょうか。


仕方がないので、数年前にDVDを購入した、にっかつロマンポルノ喜劇の傑作「看護婦日記いたずらな指」を久々に見ました。今日はこの作品に出ている宇南山宏さんのことを書きましょう。


左が宇南山さん。右はもちろん悦ちゃん。


宇南山さんは、昭和10年生まれ(寺山修司と9日違い)。早稲田大学文学部演劇学科卒業後、俳優座養成所を経て、1961年に劇団青年座へ入団。1967年よりフリーとなり、舞台に出演する傍ら、映画、テレビドラマで活躍。1963年には黒澤明監督の『天国と地獄』に刑事役で出演しています。


右端が宇南山さん



ところが下北沢のザ・スズナリでの芝居公演『鬼宴版・豊後訛り節』に主演した際、初日の演技でせりふをつかえ、それを苦にして高田馬場駅で鉄道自殺しました(享年48)。寺山が亡くなった翌年のことでした。


芝居は、松本清張の『疑惑』のモデルになった「別府3億円保険金殺人事件」 を描いた作品だったそうです。


この本の「あとがき」には、次のようにあります。


誤りを含まない哲学書はない。それどころか、批判され乗り越えられるときにこそ最も価値を発揮する、という宿命を背負っているのが哲学書である。読者の皆さんの、忌憚のないご批判を待ちたい。 


忌憚なく書くなら、この本はあくまで入門書であって、哲学書とは言えないのではないかと思いました。


というのは、「流動性」がキーワードであるのは分かったのですが、その正体については批判しようにも書かれていないからです。


とはいえ、入門書としては、色々ととても勉強になりました。『ヘーゲル哲学に学ぶ考え抜く力』は購入しましたが、今回は図書館で借りたので、明日返します。



まだ若いのに、とても残念です。「荒川強啓 デイ・キャッチ! 」を聴いていた頃は、「奥さんはどうしていつも怒っているのだろう」と愚痴ってたりして、とても身近な存在でした。


『第二の人生で大切なのは…』


『大切なのは余計なことを考えること』


もっと、色々なことを彼から学んでおきたかったと後悔しています。でも、後悔のない人生だったことでしょう。ゆっくりおやすみください。




残り41日の「100日プロジェクト」ですが、12日かけて何とか「精神の章」が終わりました。それなりには出来ていますが、これが叩き台と言って良いでしょう。

 

月末までの残り10日で「宗教の章」をやり、8月は「意識の章」と「自己意識の章」の初稿を仕上げるつもりで頑張ろうと思います。


何度も書いてますが、原書(翻訳)はおろか解説本すら読まずに『新釈 精神現象学』を100日で書くというのは、確かに無謀です。


しかし、全くの素人が出版社に持ち込んで商業出版の約束をもらい、哲学者(作家)になる目処をつけ、来春の契約社員の更新をやめるなら、逆算するとその位のスケジュールでないと駄目なのです。


ただ、先日受講した出版セミナーによれば、出版業界は同時にある程度の複数社に企画書を送付するのは問題がないようなので、プロジェクトを50日なら延長出来そうです。


もちろん、最悪はあと一年仕事を続けながら出版を目指せば良いのですが、できれば避けたい。やれるだけやってみますが、焦ってことを仕損じるのだけは、絶対に避けねばなりません。

 

(AIで作成した表紙イメージであり、中央に記載の図などはデタラメです)

スペイン強すぎ。おそらくメッシをもう見ることはないだろう。次は4年後。自分が何をやっているか、想像すらできませんが、楽しみです。



昨夜、後編が放送されたNHKの新作ドラマを鑑賞。なんと、30年後の大塚ハナが登場し、ビックリしました。まぁ若村麻由美がとても良かったので、これは良しです。


ただ、ドラマとしては斬新で面白かったものの、ちょっとやり過ぎかなとは思いました。30年後の少年が感情に浸るのは分かりますが、何より罪のない土工を殺した罪悪感がほとんど感じられません(罪の意識を描いた作品ではないことは事実ですが)。


それに、大塚ハナが少年の犯罪だと気づいて自白したという設定(裁判では証拠不十分で無罪)。やっぱ、これはちょっとなぁ。だから、それと原作にはない、こんな感じのセリフまで出てくる始末。


「人にはそれぞれ生まれつきの運命ってのがある。(生まれつき)ついてない人間は、ついている人間の足を引っ張っちゃいけないんです」


相手は赤の他人なのに、こんな人間いるのだろうか。若村麻由美が説得力があり過ぎて、ちょっと考えてしまいました。




遅ればせながら、先日BSで放送されたものを録画して観ました。「何度でも観れる」という私の名作の定義には入らないものの、大ヒットしただけあって、娯楽映画として確かに面白かった。


ただテーマ性もあって、そのテーマがあったからこそ、監督は愛車を売るなど私財を投げ打ち、構想7年、制作費わずか2600万円で一本の映画を完成させたのでしょう。


最初の1館のみというスタートながら、口コミで大ヒット、最終的に300館超、興行収入だけで10億円近くなったそう。


さて、そのテーマは、「命の使い方と運命を受け入れる覚悟」ということになるでしょうか。今の私には、ピッタリでした。



図書館の返却期限が来たので明日返しますが、例によって流し読みだけ。下記の部分が良かったので、書き留めておきます。


さて、ローティによると、初期のヘーゲル受容は、「絶対的なもの」に対する着目とカント的二元論の克服にあったという。ローティによると「(ジョサイア・)ロイスが確信していたのは、近代のいわゆる科学的不可知論の欠陥というのはまさに、それが、空間と時間の中にある世界は、⋯どのように現実の従属的な部分であるのか」を理解できなかつたことにあり、この失敗は、宗教的直観をもとうがもつまいが合理的に明らかである」と述べている。ロイスは、二元論を克服することにヘーゲルの課題を見て〈志向性〉においてそれが可能であるとした。つまり絶対的なものを主観の志向性の議論で捉えることができるとし、デューイもその議論を受け入れたとする。若きデューイは、後年、二元論の克服について次のように述べている。「主観と客観、物質と精神、神的なものと人間的なもののヘーゲルの総合は、しかしながら、単なる知的な公式ではなかった。それは、巨大な解放として、自由として作用した。ヘーゲルの人間の文化、制度、芸術の扱いは、硬く強固な壁の分解と同じような解体を含んでいて、私にとって、特別な魅力を持っていたのである」