こんにちは!

いつだって猫がお手本♬

ひろちゃんのあるがままライフへようこそ!

このブログの目的はこちら

 

私のブログは、ノンデュアリティ的な記事も多いですが、

実質、ノンデュアリティは卒業し、探求も終わっています。

 

でも、ノンデュアリティで学んだことで、大事にしているものはいくつかあるので、

それを簡単にまとめたのが、こちら

ノンデュアリティ系の記事は、

この記事を踏まえた上で、読んでいただくと、

さらに分かりやすいいのではないかと思いますので、

よろしかったらどこかで一度、読んでみてください♬

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今日は書き下ろしです。

 

「覚醒」や「悟り」という言葉に対しての私のスタンス

これも一度、書いておく必要があるなと思っていたこと。

私は、「悟り」とか、「覚醒」みたいなビッグ・ワードは極力使わないようにしているんです。

以前の記事にも書きましたが、

まるでそういう境地があるかのように、読む人をミスリードmisleadしてしまいそうだから。

 

「悟り」という言葉は、

究極的な意味でなく、世界の真相について、少しでも何かが分かった時、

気楽に使うこともあるようで、

私も、そこに抵抗を感じるワケでは無いのですが、

 

「悟った」というと、

やっぱりどうしても何か特別な印象なり誤解なりを与えかねないし、

 

「覚醒」と言う言葉に関してはもう、

すっかりスピリチュアル・ビジネスのキャッチ・コピーに成り下がってしまった気がしてしまうんです。

(ってか、そのもっともっと前は、「覚醒剤」っていう使われ方の方が、よっぽど多かったものね💧)

 

こういうキャッチーな言葉を積極的に使った方が、

よっぽど人が集まってくるのは知っているんですけどね。🤣🤣🤣

 

エゴとはずっと一緒

もちろん、「自分」というのはフィクションで、実体が無いんだって気づいた瞬間は、世界が180度ひっくり返るような、驚きと、興奮がありましたよ。

そして、「自分」がいないことに気づいただなんて、

私はもしかして、悟ってしまったのではないかなんていう、エゴで舞い上がることだって、ありましたよ。

でも、一連のコーフンが過ぎ去って、大きな安堵感に包まれると、一瞬で気づいちゃいましたよね💦

そう思うこと自体、エゴがしっかり生きてるんだって🤣🤣🤣

 

ちなみに、エゴとか「自分」と思っているものからは、一生離れられません。

でも、それで良いし、大丈夫なんです。

 

「自分」という実体はなくても、大事な脳の働きとしてあるわけですし、

特にエゴみたいな「自分」を守る機能は、

その働きをよく知って、うまく付き合ってやれば、

振り回されることもなく、むしろいくらでも快適に過ごすことは出来ます。

 

それについては、改めて書きますが、思考と距離を置く練習が大事になってくるので、

興味のある方は、まずこちらをごらん下さい。

 

悟りという夢から覚める

探究が終わると、

特別な境地とか、何か特別な精神状態になれるかというと、

むしろその逆。

 

境地とか、特別な精神状態になれるなんていう夢とか希望とか理想とかいう思考から覚めて、

当たり前のあるがままの世界に着地することなんじゃないかって、私は思います。

 

当たり前の日常というのが、実はとんでもなく幸せだったのだと、

日に日に、身に染みていくこと。

夢とか理想とか、希望みたいな、未来に対する願望みたいなものも、

また思考に過ぎなかったのだと気づくこと。

 

ついでに言うと、思考である以上、過去の経験や記憶を元にしているから、

未来に対する思いでも、やっぱり過去のものなんですよ。

だから、過去の何らかの記憶を元に、夢を見ていただけだったんだって、分かったりもします。

 

分かっているけど、どうしても求めてしまうんだっていう人は、

一度、その根っこにある思いを、見てみるといいのかもしれません。

 

目覚めの現実は、

覚醒とかいう、物々しい言葉ではなく、

「気づき」というぐらい、さりげない言葉の方がピッタリくるんです、

でも、その内容は、「覚醒」なんていうワザとらしい言葉とは比べ物にならないぐらい、

深淵で、温かくて、静かだけど絶えることの無い喜びに満ちていて、確かな手応えのある幸せです。

 

よく何かのセッションにあるような、

一時新しい境地を見たような気分になって、どんなに舞い上がっても、

気づけばまた、元の状態に戻っていて、ガッカリするようなのではなく、

 

むしろその逆。

時に、思考に呑まれたり、人間関係のドラマに溺れたりするようなことがあっても、

気づくと、温かくて、静かだけど絶えることのない喜びに戻っているんです、

 

ここでまた大事なのは、

いつもそういう穏やかで絶えることのない喜びの中にいられるというのとも違うということ。

それを求めてしまうのもまた、逆に探究のループに入ってしまう危険があるというのを、

こちらの記事に書いたので、よろしかったら。

 

「悟り」や「覚醒」を求めるロマンとhomecoming

真実って、どこか遥か遠いところにあるから見つからないのではなく

手前の手前のそのまた手前ぐらいにあるので、見えないんだと思うんです。

当たり前すぎて、こんなところに隠れているのかなんて、想像さえしないから。

 

だから、どこか遠くにある特別なものと思って求めると、

いつまで経っても辿り着くことのない地平線を追い求めて行くようなものなんです。

 

もちろん、地平線を追い求めること自体を人生のロマンと捉えて

果てしない夢を追いながら歩く、

そのプロセスそのものを楽しむという考え方もあると思いますし、

 

実際、人生はそういうものだと、ハナから決めて、

結果を気にせずに(というか、結果を諦めながら)

そんな風に次から次へと、追い求めるものを変えることで、

楽しく人生を終わる人だって、たくさんたくさんいる。

 

そういう「生き上手さん」も、いて良いと思いますし、

むしろ、世の中の経済は、そういう人のおかげで回るんだと思う。

それは、スピリチュアルの世界だろうが、経済至上主義の一般社会だろうが、大差はないと思います。

 

でも、私のように、人生の出発が苦しみで、

そこから脱出したいがためにquest(探し回ること、追及すること)して、

本人が気付いていようがいまいが

まるでそれが死活問題のように真実を探究する人もいることは確かで、

 

そういう人が目を向けた方が良いのは、

どこか遥か彼方ではなく、

目の前の、そのまた手前の、もっと手前、

このあまりに当たり前すぎる現実なんじゃないのかと思うのです。

 

オズの魔法使いのドロシーでなくても、

homecomingはいつも可能で、

 

というより、誰も、一度たりとも家を離れたことなんてなかったっていうことに

気づくだけなんだと思います。

 

ここは ぜんぶ あたちの おうちで

あたちの ベッド。

おとたまも にいたんも あたちの ベッドでし。

 

ママは ニンゲンだけど ごはんを くれるから

あたちの おうちで かって あげてまち。

 

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