こんにちは!

いつだって猫がお手本♬

ひろちゃんのあるがままライフへようこそ!

このブログの目的はこちら

 

私のブログは、ノンデュアリティ的な記事も多いですが、

実質、ノンデュアリティは卒業し、探求も終わっています。

 

でも、ノンデュアリティで学んだことで、大事にしているものはいくつかあるので、

それを簡単にまとめたのが、こちら

ノンデュアリティ系の記事は、

この記事を踏まえた上で、読んでいただくと、

さらに分かりやすいいのではないかと思いますので、

よろしかったらどこかで一度、読んでみてください♬

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今日は書き下ろし。

 

上の記事にも少し書きましたが、

ノンデュアリティで教えられている概念で、難しいものがあると、

みんな、そこへ向かおうとしてしまうんですね。

私ももちろん、そうでした。それが、ニンゲンの当たり前の反応だと思うんです。

 

でも、それ自体がもう何かを求めていて、

探求になってしまうというのも事実だと思うんですよ。

そして、それを繰り返している限り、探求は終わらない。

 

例えば、

全ての出来事の中に「静寂」があるんだって言われれば、

いつも静寂でいようとして、なるべく感情的にならないようにしたり

出来事の中から、常に静寂を見出そうとしたり、

全てが静寂なんだって、自分に言い聞かせてみたり。

 

でも、今思うに、

静寂って、目指したり、求めたり、得たりするような境地じゃないと思うんですよ。

 

私の場合、今も、何かが起きた時には、「静寂」なんて言葉さえ吹っ飛んで、

感情や思考の嵐に、揉みくちゃにされるし、ジタバタすることもあります。

でも、それで良いと思っているし、それをどうしようとも思いません。

 

でも、全てが過ぎ去った時、振り返って

やっぱり、こうなるしかなかった、

これしか起こりようがなかったんだなぁって

安堵感が訪れ、ハラ落ちして、静寂になるんだと思うんです。

 

むしろそれが分かっているから、安心して日常のジタバタにも、身を任せられる

・・・そんな風に思っています。

 

確かに、ノンデュアリティの中核、

つまり、

「究極的には、『自分』という実体がなくて

思考や感情も自分のものではないから

自分がやっていることは何一つなくて

全ては起きるがままに起きている」っていうのが一旦分かると、

 

それまで、「全部自分でコントロールしなくちゃいけない」って思って、

ギュウ~~~ッと握りしめていた手が、

ホッと緩んで、

まずそれで、と~ってもラクになります。

 

でも、だからと言って、脳の機能まで停止してしまうワケではないし、

脳は「私ありき」で動いていますから、

いくら自分はいなくて、

全て起きるがままだって分かっても、

 

やっぱり、「イヤなこと」や「大変なこと」は起きるし

それに対して以前と同じ思考や感情の反応もあるし、

自分で状況をコントロールしようとして、何らかの手を打ったりもします。

 

でも、どこかで究極的には「自分はいない、何も出来ない」って分かっているから、

むしろ、安心して流れに身を任せ、

時にもみくちゃになることがあっても、

 

抵抗少なめ(いや、別に抵抗したって良いと思いますよ・笑)なので、

結果がどうあれ、爪跡が残らないし、

仮に残っても、以前ほど傷は深くなく、あとを引かない。

そういうことなんじゃないかと思う。

 

だから、探求が終わったって、以前の生活と何も変わらないし

むしろ以前よりよっぽど、

平々凡々とした生活を送っていると思います。

 

もしかすると、何か特別な境地を目指して、ノンデュアリティをやっている人から見たら

平凡な生活は、ちょっとガッカリな様子に見えるんでしょうが 笑笑

 

この自然でラクな感覚、

そして何より、一見地味だけど、理由のないこの幸せを味わった以上、

何か別のものになろうなんていう気が、全く起きません。笑笑

 

ここからは私の個人的な体験・感想になりますが

もし、地味な生活にガッカリする人が読んだら、耳の痛い話かも💧

 

実は、私も解脱(自分を消すこと)を求めて、

最後に悟りの先生のところへ行ったことがあるのです。

 

でも、解脱を求めて行ったその場でむしろ、

何か特別なものを求める自分の傲慢さに気付いたのでした。

求めていた境地に到達して、

特別な何かになりたいという自分のエゴが見えたんです。

 

ありもしない「自分」に振り回されて、思考の世界から出られず、

思考のウソまみれで生きなくてはいけないのがイヤで、

何とか、そこから解脱して、本物になりたいと思っていました。

 

でも、その裏には、思考まみれの当たり前の人間生活を、

上から目線で見ている自分がいて、

 

そこで教わった方法で座っているうち、

悟りの境地に至る方法だったはずなのに、

その上から目線の方が、どんどんイヤになっていったんです。

 

「自分」というフィクションの中で、思考まみれに生きるのが、普通の人間の生活なのに、

何故それがいけないのか?

何故当たり前ではいけないのか?

当たり前じゃイヤだという自分の方が問題なのではないのか。

 

先生にそれを言ったら、大炎上するのが分かっていたので、

私はそのまま、その場を離れましたが、

 

でも、自覚こそなかったけれど、

そこに気付いた時、私の探求は終わっていました。

私の探求の終わりは、境地に至ることではなく、境地を手放すことでした。

 

繰り返しますが、飽くまでこれは私のケースです。

こんな風に、境地を手放すことで、

全ての人の探求が終わるんだなんて言うつもりは、全くありません。

そこは、1人1人が今の状況で、誠実に向き合う以外、答えは出ないと思います。

とにかく、境地とか、何か特別なものを求めている限り、

探求が終わらないのは、確かだということが、言いたかっただけ。

 

私は今、こんなことを書いていますが、

それはただ、頭の中にどんどん出てくることを、

一旦出してしまいたいという衝動で書いているだけで、

これで人を導く気もなければ、活動する意志もありません。

 

ただ、文字にしておけば、同じことで苦しんだ人に読んでもらったときに、

何かのヒントになるかもしれないという、それだけの目的なんです。

 

しかも、ヒントにしてもらえるのは、ものすご~~く少数の人だろうけど、

それでも良いと思っている。

でも、とても真剣にやっています。

以前の私なら、勝算がなければ、絶対にやらなかっただろうから、自分でも不思議です。

 

そして、頭の中のことを、一通り文字に落としたら、

この探求の物語はどんどん忘れて、

 

私はきっと、大衆の中に埋没し、

消えて行くだろうという予感がしています。

それで十分幸せだし、

それで納得出来るのが、なぜだか分からないけど、嬉しいんです。

 

ママは にゃんだか まいにち じを いっぱい かいていて 

たいへんそう でしね💧

 

うん、でも、これも、キミたちが おもちゃで 遊んでいるのと、

あんまり変わらないんじゃないかっていう気がしてきたわ。笑笑

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