「伊賀越えの仇討ち」
今回は敵討ちの話で、仇討ちとも言います。テレビの
時代劇では、敵討ちがからむ筋立ては定番ですよね。
主人公の武士が巡礼の姉弟と出会う。若い身空で何か事情が
ありげなので探ってみると、敵持ちであることがわかる。
武士は助太刀を申し出るものの、
見ず知らずの人ということで断られる。その後3人は
江戸に出て、さらに調べると敵は武士身分を捨てて商人となり、
ある藩の江戸屋敷に出入りしている。そしてそこで、
抜け荷などのさらなる悪巧みが行われていることが
判明する・・・陳腐きわまりないと言えばそうですが、
こういうワンパターンこそが時代劇フアンの心をつかむんです。
さて、敵討ちは日本では古来からあったとされますが、
制度として定められたのは江戸時代からです。
鎌倉時代、1232年の御成敗式目では敵討ちは禁止でした。
これについては後述します。
喧嘩は両成敗であり、成敗するのは当該者の主君の役目でした。
ただ、敵(かたき)が他の領地に逃亡してしまうこともままあり、
そこまでは主君の警察権はおよびません。
このような事例は多数あったようで、しかたなく敵討ちが
制度化されたという側面があるんです。
さて、敵と呼べるのは、自分の父母や兄等尊属の親族が
殺害された場合だけで、卑属(妻子や弟妹等)に対するものは
認められていません。また、家来が主君の敵を討つということも
一般的ではありませんでした。このことにも後でふれます。
手続きとしては、主君がまず敵討ちの認可状を出します。
多くの場合、敵は他国に逃げているので、藩を越えて移動するには、
江戸の場合は町奉行に申し出、勘定奉行、寺社奉行を含めた吟味で
認められれば公儀御帳に帳付け(記載)が行われます。
で、見事敵を討った後は、役人に捕縛されるか自ら奉行所に出頭、
そこで帳付けに氏名があった場合は無罪放免です。
地方の藩の多くでは、敵討ちがなされない場合は家督を継ぐことが
できなかったので、家は困窮し、敵討ちに出た者は親類などの
援助で旅を続けました。見事敵を討てばお家再興となりますが、
そうでない場合、郷里に帰ることはできません。まあそれでも、
日本は島国で外国へ逃げるまではできなかったので、
こういう制度も成り立っていたんでしょう。あと、敵討ちは
処罰ではなく決闘という面が強く、相手にも自己防衛が
認められていました。そこで討手を倒せば返討ちですね。
また、討たれた側の関係者がさらに復讐をする重敵討は、
どちらが死んだ場合でも禁止です。きりがないですからね。
富士・鷹・なすび
さて、みなさんは今年の初夢は何だったでしょうか。
見ると縁起がよい夢として「一富士、二鷹、三なすび」などと
言われますが、これは日本三大仇討ちを指しているという
説があります。三大仇討ちは、「赤穂浪士の討ち入り」
「曽我兄弟の仇討ち」 「伊賀越えの仇討ち(鍵屋の辻の決闘)」
富士は曽我兄弟の話の舞台になった富士の裾野の巻狩り、
鷹は浅野家の家紋、なすびは伊賀国の名物からきているのだという
ことになっています。うーん、どうなんでしょう。
自分には真偽のほどはよくわかりません。
元禄赤穂事件
さて、この中で「赤穂浪士の討ち入り」は、主君の敵というより、
浅野内匠頭の遺恨を家来が果たすという形で、幕府側から見れば
私闘であり喧嘩、浅野家遺臣側から見れば吉良家との合戦という
ことになります。ですから芝居や映画では大石内蔵助は陣太鼓を
打ちますし(史実ではないようです)、浪士はみな切腹となります。
ただ、これを敵討ちとみなすかどうかの論争は続きました。
「曽我兄弟の仇討ち」は、五郎と十郎の曽我兄弟が、1993年、
父の仇、工藤祐経を寝所で討つんですが、相手が酔いつぶれて遊女と
寝ていたところなので、あまり正々堂々とはしていません。祐経を
殺した後、兄はその場で討たれ、弟はなんと源頼朝の屋敷に
押し入り、そこで捕らえられて斬首となります。
曽我兄弟
御成敗式目の条文はこれを前例として敵討ちを禁じてるんです。
この事件、なぜ弟が頼朝の屋敷に入ったのか。じつは黒幕がいて
頼朝暗殺を指示していたという話があります。黒幕は、頼朝の弟、
蒲冠者範頼、あるいは北条家とされ、事実、この事件を契機として
範頼は失脚し、伊豆の修善寺で殺されてしまうんです。
最後、1634年の「伊賀越えの仇討ち」は、異例ずくめです。
まず弟の敵討ちであったこと。これは上記した敵討ちの基準に合致
しないんですが、藩主から内々の命を受けた上意討ちでもあったため。
兄の数馬は姉婿で郡山藩剣術指南役の荒木又右衛門に助太刀を依頼します。
この決闘、講談などでは又右衛門の36人斬りなどと言われますが、
荒木又右衛門
又右衛門が実際に倒したのは2名だけです。敵に数馬が手傷を
負わせるまで待って、又右衛門がとどめを刺しました。この4年後、
又右衛門は鳥取藩に移籍した直後に急死してしまうんですが、
あまりに唐突だったため、毒殺説や、死んだことにして身柄を
隠匿した説などが出されています。
さてさて、この他、長谷川伸の『日本敵討ち異相』を読めば、
農民の敵討ちの事例も出てきます。敵討ちは面目を重んじる武士だけの
ものでしたが、実行した農民は孝行者と称賛され、罪には
ならなかったようです。ということで、大急ぎで敵討ちについて
ふり返ってみました。では、今回はこのへんで。