乱人・藤原玄明 | 物語の面白さを考えるブログ

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平沢官衙遺跡(前記事参照)を見学しながら、私は、藤原玄明のことを考えていました。

 

藤原玄明(ふじわら の はるあき)は、平将門の乱の、直接のきっかけとなった人物です。

彼は、常陸国の住人で、『将門記』によって「素より国の乱人たり、民の毒害たるなり」と酷評されています。

農事においては収穫物を横領し、納税を拒否し、弱い庶民を脅して略奪するありさまで、その悪辣さは夷狄よりも甚だしく、その行状は盗賊に匹敵すると、『将門記』の作者は厳しく非難しています。

度々の納税督促に応じない玄明に対し、常陸国司・藤原維幾(これちか)は、ついに太政官符をとりつけ、捕縛に踏み切りました。

これを察知した玄明は、妻子を引き連れ、下総国豊田郡の平将門のもとへ逃げ込みます。

維幾は、当然のこととして、玄明の身柄の引き渡しを要求しましたが、将門はこれを拒否し、軍勢をひきいて常陸国に乗り込み、玄明の逮捕撤回を要求し返しました。

しかし、軍備を整えて待ち構えていた常陸国衙軍がこれを拒否したため、武力衝突に到りました。

将門軍は、兵数で劣っていたものの、国衙軍に勝利し、戦の勢いのままに、常陸国府を焼き、略奪に走りました。

維幾の身柄は将門の手中に落ち、降伏した彼は、印鎰(いんやく)を差し出しました。

印とは、国司の持つ決裁印のことで、鎰とは、国庫の鍵を指します。

印鎰は、権力の象徴であり、淵源でもあります。

印鎰を奪ったことで、将門の行動は私闘の域を逸脱し、朝廷への反逆となったのでした。

 

玄明は、なぜ、将門に庇護を求めたのか――。

将門は、なぜ、罪人である玄明を庇ったのか――。

疑問は尽きませんが、私が平沢官衙遺跡を見学しながら考えていたのは、別のことでした。

玄明は、下総国の将門のもとへおもむくさい、行きがけの駄賃とばかりに、常陸国の行方郡および河内郡の不動倉を襲い、米穀や糒を盗み取っています。

不動倉とは、非常時に備えて米を備蓄している国の施設です。

平沢官衙遺跡で、復元された倉庫を目の当たりにしたとき、私の脳裏に浮かんだのは、この建物を破って中身を盗み出すのに、どれほどの労力と人数が要るのか? という疑問でした。

 

 

 

校倉のこの木組みを見たとき、これをぶち破って侵入するのは容易ではないと感じました。

 

 

 

土壁を破るのも厳しそうです。

 

 

 

実際、どのくらいの厚さがあるかはわかりませんが、板壁ならいけそう?

斧などでぶち破ることができたとしても、人が荷物を担いで出入りできる大きさの穴をあけるのは、容易ではないでしょう。

そう考えると、やはり、素直に扉を破って侵入するのが、妥当な方法である気がします。

しかし!

考慮しなければならない困難は、まだありました。

倉庫が、高床式であることです。

 

 

扉の前に階段が設置されていますが、これはあくまで遺跡見学用のもので、「当時」においては常設されていなかったと思います。

なぜなら、高床にする目的のひとつが、鼠害を防ぐためであり、階段を常設するのはネズミの登攀路を用意するようなもので、床材にわざわざネズミ返しをつけた意味がなくなるからです。

 

ネズミ返し

 

歴史素人の浅薄な考えではありますが、おそらく、倉庫に荷物を出し入れするときのみ、移動式の梯子なり階段なりスロープなりを用いて足場を築いたのだと思います。

そう! 問題はこの点です。

ふだんは、足場がないのです。

斧などで扉をぶち破ろうにも、斧を振るうさいの足場がない。

 

 

私の身長をモノサシとして、現地で大雑把に測ったので正確な値ではありませんが、地面から床まで、校倉で大体120~130センチくらいの高さがあります。

 

 

双倉で160~170センチくらい。板倉も同程度の高さがあります。

これをよじ登るのは一苦労です。

つまり、高床式であることは、それだけで盗難防止の役に立っているのです。

 

 

さらに気になるのが、外周にめぐらされた溝です。

玄明の襲った不動倉にも同様の溝があったのかはわかりませんが、これが当時の標準的な公的倉庫施設の造りであるならば、あったと仮定しても的外れではありますまい。

 

 

何のための溝なのか、私にはわかりませんが、堀と呼ぶには浅すぎるので、湿気対策の排水用だったのかもしれない、などと考える次第です。

この程度の深さなら、徒歩や馬で越えるには、さほどの困難はないように思われます。

しかし、米穀を盗み出したあと、荷を負った馬や荷車で越えるとなると、侮れない障害となる気がします。

この溝が侵入者対策でなかったとしても、治安が乱れている当時の世相を考慮すれば、防犯用の柵や警備兵が配置されていても不思議はありません。

つまり、倉庫から盗み出すこと以外にも、敷地への侵入と脱出の段階で、困難が伴っているということです。

不動倉を襲って備蓄米を盗んだと書くのは簡単でも、侵入・略奪・逃走のプロセスをリアルに想像すると、シロウト目にも簡単な仕事だとは思われないのですが……。

 

では、藤原玄明の一党は、不動倉をどのように攻略したのでしょうか?

倉庫を壊滅させるだけなら放火すればいいのですが、中身を盗み出している以上、それはありません。引き上げるきわに火を放ったかもしれませんが。

想像するより他にありませんが、おそらくは、人数を頼みにして、正規の通用路から押し入り、まずは警備兵を制圧して、外へ連絡がいかないようにし、事件の発覚を遅らせたのではないでしょうか。

そのあとで盗み働きに着手した。

自分たちで倉庫用の足場を携行しているとは考えにくいので、不動倉を管理する施設のどこかにしまわれている移動式足場を持ち出し、倉庫の扉を破って侵入したのでしょう。

ひとつの倉を破って窃盗を終えてから、足場とともに次の倉へ移動――。

これをくり返したにちがいありませんが、手間のかかる仕事であることは容易に想像がつきます。

人数が多いほど、仕事に要する時間は短くなる計算ですが、手馴れていなければ、人数だけ多くても非効率な仕事ぶりになるでしょう。

おそらく、玄明の一党は、こういうことに馴れている集団だったのではないでしょうか。

不動倉を襲撃したのは、常陸国から下総国へ逃げている途中です。

ふつうに考えれば、一刻も早く逃亡したい状況でしょう。

その途中で、盗み働きをしている。しかも、二箇所で。

常陸国への、イタチの最後っ屁的いやがらせなのか、備蓄米を入手したのは将門への手土産なのか、その意図は不明ながら、藤原玄明という男、なかなかに図太い性格であることは間違いなさそうです。

 

藤原玄明の素性は不明です。

広大な農地を経営し、周辺の零細な農民を私出挙(※)によって搾取していたらしいことから、「受領土着型豪族」であったとする説があります。

 

※ 出挙(すいこ)は、稲粟の種子を播種期に農民に貸与し、収穫期に利子を徴収する制度。元来は農民救済と勧農が目的でしたが、次第に財源と見做されるようになり、租税化されました。公が行う公出挙(くすいこ)と、私人が行う私出挙(しすいこ)があり、後者の場合、年利100%まで認められました。暴利!

 

一方、『古代豪族』の著者・青木和夫氏は、「僦馬の党」の同類ではなかったかと推察しています。

僦馬の党(しゅうば の とう)は、租税などの運輸を生業とする集団で、群盗の横行する当時の治安の悪さに対応して武装化し、自らも少なからず強盗行為を行いました。運輸業者 兼 強盗団といった存在です。

不動倉襲撃の手際のよさを考えると、玄明が僦馬の党の流れを汲んでいるという推察は、十分にあり得ることだと思います。

僦馬の党が、農地経営にも進出し、富農化したものでありましょうか。

 

以下は、私の想像です。例の、「歴史小説の構想ノートを作る」という体裁で行う、愚にもつかない推察です。

将門が玄明を庇護した理由を、『将門記』は、失意の人をたすける将門の侠気的な性格に求めていますが、それだけで隣国の国司と武力闘争を行うほどに対立するだろうかという疑問を感じざるを得ません。

それよりは、かねてより特別なつながりがあったと考える方が、自然である気がします。

そこで思いついたのが、「僦馬の党」というキーワード。正確には、「運輸業」。

将門と玄明との関係は、生産者と運輸業者との関係だったのではないか?

玄明は、霞ヶ浦東岸を活動拠点としていたと思われます。

将門は、自国の生産物を常陸方面に捌くさい、玄明の持つ流通ルートを使用していたのではないか。

霞ヶ浦西岸、および、筑波山南麓・西麓は、平国香・良兼・良正によって掌握されています。

いわずとしれた、将門と敵対している伯叔父たちです。

将門と敵対しているというより、将門の父・良持の時代から、兄弟間で軋轢があり、良持が死去したために、将門がその軋轢を引き受けることになったのではないか――個人的には、そう思っています。

軋轢の生じた理由は、奥羽に関する利権をめぐる争いでしょう。

将門の父の世代――父・良持と、叔父・良文は、鎮守府将軍に任命されており、奥羽から産出する富の恩恵にあずかっていたことは確実です。

彼らと、奥羽利権に食いこめなかった国香・良兼・良正らが反目していたとしたら?

鬼怒川の西岸に勢力圏を持つ良持・良文に対し、鬼怒川東岸の筑波山麓を掌握した国香らが、東山道へ連絡する流通路を牛耳って、せめてもの意地で妨害をしていたとしたら?

常陸国の太平洋側――霞ヶ浦東岸から、海路で陸奥へ物資を運搬するルートを、良持らが開拓したとしても、さほど不自然なことではないでしょう。

藤原玄明は、そのルートに一枚噛んでいたので、将門の庇護を受けることができた、と私は考えたいのですが、如何でしょうか。