茨城県つくば市にある平沢官衙遺跡を訪れました。
官衙(かんが)とは昔の役所のことです。
平沢官衙遺跡は、いまから千年以上前の奈良・平安時代に造営された、常陸国筑波郡の郡衙です。
昭和50年(1975)の調査でその重要性が判明し、昭和55年(1980)に国史跡に指定されました。
平成5・6年度(1993・4)の調査で、大型の高床式倉庫と考えられる建物が数多くならび、それらを大きな溝が囲むという遺跡の全容が確認されました。
郡衙には、政庁(執務用の施設)、正倉(穀物などの保管倉庫)、館(宿泊・饗応の施設)、厨(食事を作る場所)などの建物があり、平沢官衙遺跡は、このうちの正倉部分と考えられています。
発掘の様子。
遺構の変遷。
L字形、または、コの字型に、数棟単位で建物が配置されていたことが窺えます。
立体復元された三棟。
右から、一号建物、二号建物、三号建物。
平面復元(礎石)。
【一号建物】
高床校倉(あぜくら)。
校木(あぜぎ)を井桁状に組み上げる校倉は、郡衙正倉では中規模以下の倉に多いことが判明しています。
屋根は、四方向に傾斜面を持つ、寄棟造り。
復元に際しては、奈良県の東大寺や唐招提寺に現存する校倉が参考にされました。
三角形の木材を組んで壁としています。
組んだときに、ギザギザを外側に、平らな面を内側にすることで、室内の壁面が平らになります。
校倉に屋根を支える柱はなく、外壁にわたされた梁が屋根を支える構造。
床下。
礎石の上に束柱が建ち、その上に台輪(だいわ・床を支える部材)が載っています。
台輪の端が「へ」の字に曲がっているのは、水切りやネズミ返しの名残だとする説があります。
【二号建物】
高床土壁塗双倉(ならびくら)。
平沢官衙遺跡で最大級の建物。
古代の文献によれば、郡衙において巨大で中心的な正倉は法倉と呼ばれ、土壁構造が多かったと推定されることから、土倉として復元されました。
屋根は、出土した瓦の量が少なかったため、瓦葺建物は考えにくく、茅葺での復元となりました。
双倉は、主に奈良時代の寺院の倉庫建築の一種で、同一規模の倉をならべて建て、長い共通の屋根をつけたものです。
平沢官衙遺跡では、Ⅱ期52・53号とナンバリングされた建物が双倉になる可能性があるため、双倉構造での復元が採用されました。
復元に際しては、奈良県の法隆寺・綱封蔵(こうふうぞう)が参考にされました。
床下。
屋根は柱で支えています。
柱の上にある、屋根の荷重を分散して受け止める構造、寺社建築などでも見かけますね。
【三号建物】
高床板倉。
二号建物とともに、最大級の建物。
展示の都合上、出入り口を二箇所、設けたものの、この建物にふたつの扉があったというわけではないとのこと。
屋根は、最頂部の梁からふたつの傾斜面がくだる切妻造り。
ひとつの柱穴に、二本の柱が建っている構造。
一方は長くのびて屋根の梁と桁とを支え、もう一方は短く、床を支える長さ。
柱の間に板を落とし込んで壁とする板倉として復元されました。
古代の文献によると、郡衙の正倉は板倉がもっとも多いとのこと。
遺跡外周の溝。
なだらかな小丘の上に建つ倉庫群。
二号建物の後方にそびえる筑波山――があるのですが、画角の関係で見えません。
最初の方に載せた写真には写っているので、そちらでご確認くださいませ。
筑波山の南麓の地に郡衙が位置することには、意味があると思われます。
この辺りは、西麓に沿って北上して東山道に連結する道が通っていた、交通の要衝であったとの説があり、そうであるなら、流通に利便な立地ということになります。
平将門関連でいえば、西方へ2~3kmほどいった地点には、平良正が本拠とした水守営所があったはずであり、筑波山西麓は平良兼のテリトリーです。
このような位置関係から、常陸国に扶植した平一族が、政治と経済の枢要を押さえていたことが窺えます。
案内所の扉にフォージャー家を発見!
案内所で出土品を見学したあと、パンフレットをいただいて帰りました。
ちょうど『古代豪族』を読み終え、郡司について知ったばかりであり、タイミングのよい訪問となりました。
郡司が管掌していた郡衙の規模を体感したことで、読書で得た知識に、わずかながら具体的なイメージが備わった気がします。
有益な体験でした。
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平沢官衙遺跡
所在地:茨城県つくば市平沢353
・案内所は 9:00~16:30 オープン
月曜、祝日の翌日、年末年始は休止
・駐車場あり(無料)
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