平将門の生涯を記した『将門記』。
私が所有しているのは、平凡社から出版されたもの。
『将門記』の原典は現存しておらず、いくつかの写本があるものの、完全なものは存在しない。
平凡社版『将門記』は、写本のひとつ「真福寺本」を底本としているが、巻首を欠いているので、冒頭部は不明となっている。
その部分を抄本の中のひとつである『将門記略』によって補っているのであるが、ただし、それでも完全ではない。
『将門記略』によると、将門の系譜を述べる書き出しであったらしい。
「聞くところによると、あの将門なる者は、桓武天皇の五代の苗裔であり、その第三代にあたる高望王の孫である」で始まるのである(一部を省略して口語訳)。
私はこの一文に、非常に初歩的な疑問をおぼえた。
以下に、桓武天皇から平将門に到るまでの、父-子の系譜を掲載する。
① 桓武天皇
② 葛原親王
③ 高見王
④ 高望王(平高望)
⑤ 平良持
⑥ 平将門
……
…………
……………… 将門、六代目じゃね?
梶原正昭氏による注釈を参照すると、「将門は、葛原親王から数えて五代の後胤にあたる」とある。
数えはじめを葛原親王にすれば、確かに五代目ではある。
しかし、歴史素人の私にすれば、どうも釈然としない。
現代の感覚では、子を指して「二世」と呼ぶのが普通だと思うのだが、昔の人にとっては、子が「一世」だったのだろうか? (口語訳では高望王を「三代」としたが、原文には「三世」とある)
桓武天皇を初代(一世)としてカウントした場合でも、将門を五代目にする方法がひとつある。
高見王をいなかったことにしてしまうのだ。
高見王は、『尊卑分脈』などの系統図にしか登場しない謎の人物である。高見王に関しては、文献上の矛盾が多く、彼の実在を疑う歴史研究者は少なくないという。
『将門記』には、系図は載っていない。将門の系譜を説明するにあたり、「桓武天皇の五代の苗裔」「三世高望王の孫」と述べているにすぎない。
もし、『将門記』の作者の念頭に、高見王なる人物が存在しなかったとすれば、桓武天皇から数えて五代としたことに筋が通るのだが……歴史素人の私には、確たることは言えないのである。
上述したような、初歩的な疑問とモヤモヤを抱えたまま、現在、『古代豪族』(講談社学術文庫)を読んでいる途中である。
そこでモヤモヤを吹き飛ばす記述に出会った。
養老7年(732)に発布された、三世一身法という法令がある。
墾田の奨励のために、荒れ地を開墾した者には、子・孫・曽孫の三世代にわたって、墾田の私有を認めるという内容である。
「三世」と言って曽孫までを含むなら、やはり「一世」は子を指すではないか!
そうか、これが昔の人の世代の数え方か。
この数え方が、10世紀の将門の時代にまで生きていたとしたら、葛原親王を「一世」と数えて、将門は確かに「五代の苗裔」に当たる。
なるほどね。
モヤモヤは晴れた。――と、思ったのであるが……。
念のために三世一身法について調べたら、「三世」の指す範囲を、本人・子・孫とする説と、子・孫・曽孫とする説とがあるのだそうな。
どっちが正しいんだよ!
やっぱりモヤモヤする。
誰かたすけて。