アクションシーンのアニオリについて | 物語の面白さを考えるブログ

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アニメ『呪術廻戦』「渋谷事変」を観て、アニオリについて思うところができたので書きます。

アニオリといっても、今回はアクションシーン限定とさせていただきます。

私は原作尊重主義者で、原作のエッセンスが損なわれないかぎりにおいて、改変を許容する立場です。

すべてのアニオリに対して異を唱えることはしませんが、「いいアニオリ」と「悪いアニオリ」が存在するように感じます。

本稿では「悪いアニオリ」について考察します。

たまたま「渋谷事変」を観ていて思いついたネタなので、「渋谷事変」を題材にしますが、アニメ「呪術」を貶める意図はありません。

 

私が「悪い」と感じたアニオリで、その要因となっているのは、次に挙げる二点です。

 

① アクションシーンの長尺化によってもたらされる退屈

② 過剰演出による世界観の逸脱

 

①に関しては、富野由悠季監督の演出術に関して解説した過去記事と同じ内容です。

 

・物語の面白さとは、劇(ドラマ)が進行する面白さである

・アクションシーンでは、基本的に劇の進行が停止する

・劇の進行が停止すると、視聴者は退屈を感じる

・よって、アクションシーンは、あくまでも劇に付随するものでなくてはならない(アクションのためのアクションであってはならない)

 

ざっとこのような内容です。

「渋谷事変」で言えば、宿儺 VS. 魔虚羅の長々としたバトルシーンに、私は退屈を感じてしまいました。

画面上では、ふたりが目まぐるしく動き回っていましたが、劇は一ミリも進行していないわけで、まさにアクションのためのアクションという印象でした。

 

過去記事 下矢印

 

②の「過剰演出による世界観の逸脱」ですが――。

まず、「世界観」という言葉をどう定義するか。

いろいろな仕方があると思いますが、ここでは、「できること・できないことが明瞭になっていること」としておきます。

よって、世界観を逸脱するとは、できないはずのことができたり、できるはずのことができなかったりすることを指します。

キャラクターがぶれることも、この範疇に収めてよいかと思います。そのキャラクターが、ふだんはやらない・できないはずのことをやったり、やって・できて当然のことをしなかったりすれば、視聴者は違和感をおぼえるでしょう。

アクションシーンにおいては、盛りすぎ(過剰演出)によって、できないはずのことをやってしまう事態が往々にして起こります。

宿儺 VS. 魔虚羅において、魔虚羅が巨大化するのは、世界観を逸脱しているように感じました。

もっとも、式神の設定がどうなっているか不明なので、もしかしたら巨大化は可能なのかもしれませんが……。少なくとも、原作を読んだかぎりにおいては、身体の大きさを変化させられるイメージはありませんでした。

また、禪院甚爾(孫)VS. 伏黒恵において、甚爾が「脱兎」を瓦礫を弾いて迎撃するシーンも、世界観の逸脱ではないかと感じました。

甚爾のフィジカル性能を考慮すれば、可能なアクションかもしれませんが、何となく甚爾っぽくない戦い方だなと思ったのです。

「何となく」と言っている時点で、逸脱しているかはグレー判定になってしまいますが。

 

せっかくのアニメ化なので、原作以上のものにしたいという製作側の気持ちもわからなくはありませんが、盛りすぎて上記の二点に抵触するようになると、視聴者としては興醒めしてしまいます。

 

悪いところばかり挙げたので、最後に良いところを。

虎杖 VS. 脹相はよかったと思います。

原作を読んだかぎりでは、赤血操術に強いイメージを持っていなかったのです。

しかし、アニメを観て、認識が覆されました。

技の威力やダメージをきちんと描写するのは、原作に対する見事な補完になっていたと思います。

それと、技の種類を整理して解説しているのも、わかりやすくていい演出だと思いました。

赤血操術という術式、ひいてはその使用者である脹相というキャラクターをきちんと描写しようというしっかりした意図があったため、「良いアニオリ」になったのだと思いますが、どうでしょうか。