映像の原則 改訂版 | 物語の面白さを考えるブログ

物語の面白さを考えるブログ

マンガ・映画・フィギュア・思索など

 

 

ようやく読み終えました。

過去記事「『聲の形』 鑑賞ポイント」で触れた本です。

著者は、海のトリトンやザンボット3やガンダムやイデオンやザブングルやダンバインやエルガイムやブレンパワードやキングゲイナーでおなじみの富野由悠季監督です。

映像作品の演出技法に関して述べています。

技術的な話に、富野監督の思想や業界に対する期待・愚痴が混合しているので、純粋な技術論とは呼べません。

良くも悪くもトミノ的だなーと思ったわけでして。面白かったですけど。

富野監督の文章は癖があって読みやすいとは言えないのですが、本書はわかりやすい部類だと思います。

全333ページ。

 

 

本書の内容を要約すると、映像には、自然発生的に生じる「視覚印象」が備わっているので、それを無視して演出をするべきではない、ということです。

例えば、画面の右側に人物が映っているだけで、観客の視線と注意力は自然と右側に偏ります。

すると、画面には、左から右へ、という「流れ」が生じます。

これを「映像の力学(ダイナミズム)」と呼びます。

アングルや陰影、画面に占める被写体の割合などによっても「映像の力学」は発生します。

「映像の力学」は、被写体の性質とは無関係に生じるものですから、それを考慮せずに画作りをすると、語りたいこと(被写体の性質)を十分に表現できない事態が起こり得ます。

逆に言えば、これは、語りたいこと(被写体の性質)を表現する際に、「映像の力学」を利用すれば、その表現は、より効果的になることを意味しています。

映像作品における演出とは、ストーリーやテーマと、「映像の力学」とをマッチングさせる仕事である、というのが、富野監督の主張です。

 

『聲の形』 の解説記事で、主人公の移動する方向と、心理とがマッチしていると書きました。

観客から見て、画面右側(上手)から左側(下手)への移動は、ポジティブを表す。

逆の動きは、ネガティブを表す。

どうしてこのような印象の差が生じるのか、記事を執筆した時点ではわからなかったのですが、理由は本書に記されていました。

それは心臓の位置と関係がありました。

われわれの心臓は、身体の左側にあります。

心臓は、言うまでもなく急所です。守らなければならない臓器です。

左から来るものは、心臓に近いので、脅威に感じます。

右から来るものは、心臓から遠いところから接近するので、受け容れやすく感じます。

この感じ方の差が、右から来るものに対しては好印象を、左から来るものに対しては悪印象を生じさせるのです。

この説の出典や提唱者が明記されていないので、どれほど信憑性があるのか検証できませんが、それなりに説得力は感じられます。

芸能・演劇に携わった古人は、このことを経験的に理解し、舞台の上手・下手という形式を決定したのだそうです。

 

 

「映像の力学」の他に、映像作品の特性について、重要なことが述べられていました。

それは、鑑賞に要する時間を、観客側ではなく、作品側が規定してしまうことです。

漫画や小説は、読者が好きなペースで読むことができます。

途中で手を止めたり、前のページに戻ることも、読者の自由です。

ところが、映像作品は、一度始まってしまえば、基本的に、途中で止めることも、巻き戻すこともできません。観客は作品の進行ペースを強制されるのです。二時間の映画であれば、二時間、座席に拘束されます。

作品がつまらなければ、この拘束時間は苦痛に変わります。作品全体の評価はもちろん、ワンシーンであっても、冗漫な画面があれば、たちまち苦痛が生じます。

このような事態に観客を陥らせないために、画面の中では、常に劇が進展していなければならない、というのが、富野監督の思想です。

戦闘シーンは、基本的に、劇の停滞を意味します。

画面上では被写体が目まぐるしく動き回っていても、キャラクターの心理は動いていないからです。物語は止まっているのです。

だから、良質の作画や、激しいアクションを以て「演出を果たした」と考えるのは、心得違いだと富野監督は斬り捨てます。

戦闘シーンは、あくまで物語の一部であるので、物語の流れから独立しては存在し得ないのです。物語の流れにそって、ストーリー性やキャラクターの人物像を描出するのが、真に優れた戦闘シーンであるのです。

これには共感します。

なぜなら、現実として、劇場版「無限列車編」を鑑賞したとき、先頭車両上での戦闘シーンに、私は苦痛を感じてしまったからです。

本書を読んで、その理由が理解できました。

富野監督、さすがの慧眼です。

 

 

フォローしてね!