アニメ【刀鍛冶の里編】第十一話 繋いだ絆 彼は誰時 朝ぼらけ【感想】 | 物語の面白さを考えるブログ

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【ご注意】

「柱稽古編」のネタバレを含みます。

原作未読の方はご注意ください。

 

 

ネット上の感想では、賛否両方の意見が見受けられた。

争点はアニオリの部分である。

炭治郎が禰豆子に蹴っ飛ばされたシーンで大量に流された禰豆子の既出映像。

里を去るシーンで里人の感謝と喝采を受ける炭治郎。

おもにこの二点である。

前者に関して述べれば、肯定派は「泣けた」と言い、否定派は「くどい」とのたまう。

同じものを見ていながら、何故に評価が正反対になるのか?

理由を考えていたら、ひとつ、閃いた。

アニオリ部分はロードラマとして作られている。

「ロードラマ」、および対になる概念である「ハイドラマ」は、岡田斗司夫氏の造語で、簡単に言えば、誰にでもわかる演出で感動に誘導するのが「ロードラマ」で、視聴者に一定の理解力を要求する演出で心を波立たせるのが「ハイドラマ」である。

ロードラマであることに満足できる人が肯定的な感想を持ち、満足できない人が否定的な感想を抱いたのではないか。

そのように推察したのである。

 

では、原作はロードラマなのかハイドラマなのか?

この点を考える上で重要となる作品が『過狩り狩り』である。

吾峠先生のデビュー作であるこの作品は、全編描写のみで構成された特異な作風を持つ。説明セリフひとつとて存在しない。読者は本編の描写から、作中で明言されていない部分を察しなければならない。

処女作に作家性が最も色濃く表れるという俗説を信じるなら、吾峠先生は「描写で表現する作家」である。

しかし、さすがに「説明」をすべて排除したのでは読者に伝わらないと考えたのであろうか、『過狩り狩り』以降、何作かの短編を経て『鬼滅の刃』を生み出したときには、「ナレーション」や「モノローグ」を多用して説明する作風へと変化していた。

それでも根幹は変わらず、「描写」である。

説明過多と揶揄されることのある「鬼滅」であるが、肝心なところや細部は「説明」抜きの「描写」で表現されている。

例えば、第一話で、帰宅した炭治郎が惨殺された家族を発見するシーン。息を切らしているのは、尋常ならざる血臭を遠くから嗅ぎつけて駆けつけたからだ。しかしながら、この点に関してはモノローグなどで説明されていないし、血臭を感知したシーンすら省略されている。読者は息を切らしている理由を自分で推察するしかない。この点は気付かなくてもストーリーを理解するのに支障はないので、さりげない描写にとどめたのであろう。――この「わかる人にはわかる」演出こそ、ハイドラマである。

このことから演繹するに、「鬼滅」は本質的にハイドラマであるが、読者の理解を得るためにロードラマを装っていると言えそうである。ハイドラマである本質をロードラマというオブラートでくるむことで、読者の持つ「理解度の壁」を巧みに通過しているのである。

 

このような原作をアニメ化するに際して、どのようなコンセプトで臨めばいいのか。

原作のわかりにくい部分をわかりやすく作り直す――これは是とされるべきであろう。

方法論は大きく二種類に分けられると思う。

 

・補完

・ハイドラマをロードラマに変換する

 

アニオリ部分には、この二種類が存在しているように見受けられる。

「補完」は、太陽を克服した禰豆子を見て甘露寺蜜璃が驚くシーンである。原作にはないが、補完されてみれば、なるほど、このような反応を蜜璃が示さなければ不自然だと納得がいく。

ハイドラマをロードラマに変換しているのが、先に挙げた、炭治郎が蹴っ飛ばされたシーンでの、禰豆子の過去映像大量振り返り演出である。「ここが泣きどころですよ」とわかりやすく教えてくれるロードラマ的演出になっている。

ハイドラマをロードラマに変換するのは構わないとして、このアニオリに関しては、わかりやすく強調すべきポイントがずれているのではないかという気がしてならない。

そもそも、このシーンは、身内ひとりの命と、数名の他人の命、どちらを救うか決断を迫られている状況である。

この葛藤を解決することがドラマの本質である。

その解決――決断にこそ、物語の受け手は感動するのである。

炭治郎は決断できず、決断したのは禰豆子であった。

ならば、描写すべきは、禰豆子の決断と、それを受け取った炭治郎の覚悟であるべきである。

しかし、アニメは、禰豆子との永別を嘆く炭治郎の情緒に焦点を当て、視聴者の涙を誘う方策を採った。

ここに私は、劇場版「無限列車編」と同じ過ち――あえて過ちと言おう――を見るのである。

描写すべきは、煉獄杏寿郎の〝強き者〟としての気高き精神と、それを託された炭治郎の覚悟であるべきなのに、映画は、煉獄さんを失った炭治郎の哀しみに焦点を当て、それをロードラマ的演出で強調することで視聴者の涙を誘う方策を採った。

どうにも的を外しているように見えてしまうのである。

 

刀鍛冶の里を後にするシーンは、「補完」でも「ロードラマへの変換」でもない。

完全オリジナルシーンである。

だからこそ、ufotable のアレンジの癖みたいなものが、如実に表れていると思う。

それゆえに、何ともむず痒いチグハグさを、私は感じたのである。

要するに、里を守った炭治郎が英雄扱いされているわけであるが――。

第十一話のタイトルを見てほしい。

「繋いだ絆 彼は誰時 朝ぼらけ」である。

〝繋いだ絆〟と標榜しているのに、里人の感謝を一身に受けるのは炭治郎一人である。

他のメンバーはどこへ行ったのか?

ここに私は、劇場版「無限列車編」と同じ過ちを見るのである(二回目)。

冒頭でお館様が「人の意志は受け継がれる」と標榜したにも関わらず、炭治郎は(まだ)煉獄さんの意志を受け継がず、悲嘆に沈んでいるシーンで物語は閉幕するのである。何ともチグハグではないか。

それは、まだ、いい。

問題は、この終わり方で、違和感なく「柱稽古編」へ繋がるのか、ということである。

「柱稽古編」では、悲鳴嶼行冥との絡みがクライマックスとなる。

悲鳴嶼は、里を守った炭治郎を認めると告げる。

しかし、炭治郎は、それを受け取らず、正直に打ち明けるのである。

 

「決断したのは禰豆子であって俺ではありません」

「俺は決断ができず危うく里の人が死ぬ所でした」

「認められては困ります」

 

これが本心である。

であるならば、里人から盛大な感謝を送られたとき、炭治郎は複雑な心境だったはずである。

しかし、アニメでは満面の笑みで受けている。

この描写でいいのか、と私は首をかしげざるを得ない。

せめて一瞬、翳りのある表情を浮かべるカットを挿むとかすればよかったのであるが、それだとハイドラマの演出になってしまう。

「刀鍛冶の里編」のエピローグである里を去るこのシーンは、ufotable 的には、何が何でもロードラマ的演出でハッピーエンドの雰囲気にしたかった。炭治郎の翳りのある表情などもってのほかである。こうして物語の機微は失われた。このあとの「柱稽古編」で、上述した悲鳴嶼とのやり取りになったとき、チグハグさを感じはしないだろうかとの懸念が残る。

ついでに言えば、鋼鐵塚さんのツンデレ化も、「柱稽古編」で再登場する際の態度と齟齬を来しているような気がする。

終わりよければすべてよしと言うが、このオリジナルのエピローグを見て、ufotable の脚本能力への不信を深くした次第である。

 

他にも言いたいことはあるが、長くなったので省略することとする。

冒頭の賛否両論に話をもどせば、ロードラマで満足できる人と、満足できない人との溝は、永遠に埋まらないと思っている。

両者に和解は訪れず、賛否両論は止揚されることなく永続するのであろう。