感動の涙、喪失の涙 | 物語の面白さを考えるブログ

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尾田栄一郎先生がおっしゃっていましたね。

「人(キャラ)が死んで泣くのは感動の涙ではない」といった意味のことを。

アニメ「鬼滅」の〝泣かせ方〟に接するたびに、この言葉が心に染みます。

 

 

私が ufotable に対して批判的になったのは、劇場版「無限列車編」を観て、心がそよとも動かなかったからです。

劇場で六回観て、家でもDVDで鑑賞しましたが、結果は常に同じ。心は無風状態。

原作を読み直すと、その度に涙が出るので、私の感受性が麻痺しているわけではないらしい。

この違いはどこから来るのか?

物語を語る際の「視点」の問題だとか、映像による「描写」と「説明」の違いだとか、原因はいくつか考えられますが、本稿では「涙の種類」について考えてみます。

 

冒頭に掲げた尾田先生の言葉のとおり、人が死んで流す涙は感動の涙ではありません。

哀しみの涙です。

では、感動の涙とは何か?

私が思うかぎり、それは想定していたより大きな愛に触れたときに流す涙のことです。

思いがけないほど大きな愛に触れたとき、心はブルブルと震え、その結果の生理的反応として、涙があふれてしまう。心が震えている間は、止めようと思っても止められない涙です。

それが感動の涙。

 

前に泣ける恋愛映画の仕組みを分析しましたけれども。

単に恋人が死んだから哀しくて泣くわけではないのです。

死後、手紙やその他の手段で、残された側に愛を届けてくるから泣いてしまうのです。

死という絶対的な断絶を乗り越えてまで愛を伝えようとする心の在り方に感動して泣いてしまうのです。

「そこまでするのか!」って。

 

手紙といえば、忘れてはいけないのが『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』。

病気で死んでしまう母親が、残される幼い娘のために、五十年分の手紙を書いて、毎年の誕生日に一通ずつ配達されるよう手配する話がありました。

感涙必至のエピソードです。

これなんか「そこまでするのか!」の好例でしょう。

娘を思う母親の愛の偉大さに触れ、鑑賞者は心を震わせ、涙を流すのです。

 

娘を思う母親の愛といえば、掛け替えのない一人娘が住める世界をつくるために、パーメットスコア8でクワイエット・ゼロを発動させようとした母親もいましたが、あちらが泣けないのは、手段が邪悪すぎるからでしょう。

手段が間違っている場合、ドン引きして、感動の涙は引っ込んでしまいます。

 

で、「無限列車編」の場合ですが――。

あれの涙は、単に煉獄さんが死んで哀しい、っていう涙じゃないんです。

人の命が喪失したことを嘆く涙ではない。

煉獄杏寿郎が見せた〝力持たぬ者〟に対する愛の大きさに感動して流した涙なのです。

彼はなぜ、命を懸けて〝力持たぬ者〟を守るために戦うのか?

心底にある動機は、弱者に対する愛でした。

亡き母との別れのエピソードが明かされて初めて、読者は彼の心根を知り、感動するに到ったのです。

弱者に対する愛を貫くために、自らの命が失われることも厭わない――そこまでするのか! という衝撃。そこに感動するのです。

この感動の涙は、しかし、劇場版「無限列車編」において、煉獄杏寿郎個人の死を哀しむ「喪失の涙」にすり替えられた感が否めません。

 

原作「鬼滅」の涙は、大体がこの類の「感動の涙」です。

有一郎の死に涙するのは、死の間際まで弟のことを思い続けた兄弟愛の深さに感動するからです。

不死川兄弟の場合も同様です。

ところがアニメになると、「感動の涙」を「喪失の涙」にすり替えた上で、わかりやすい演出で「さあ、泣きなさい」と指示してくる。

泣けと言われたって、こちとら重曹を舐める天才子役じゃないのだからして、はいわかりましたと泣けるわけがない。

そのやり口が露骨に表れたのが、「刀鍛冶の里編」における、禰豆子が陽光に焼かれながら、決断できない炭治郎を後押しするシーンでした。

「禰豆子の命が失われる」という状況をクローズアップし、いい感じの歌をBGMにして大量の回想シーンを流し、視聴者の涙を――「喪失の涙」を――誘う。

短い時間で決断を迫られる緊迫したシーンなのに、回想とスローモーションのおかげで視聴者の体感時間が伸びてしまい、悪い意味で「そこまでして泣かせたいのか」と思ってしまいました。

そもそも、あそこ、泣きのシーンだっけ?

泣かせるにしても、だったら禰豆子が里人へ向けた慈愛の方をクローズアップしなさいよって話だ。

 

劇場版「無限列車編」の涙を、もう少し点検してみます。

炭治郎が夢で再会した家族に背を向けて走り出すシーン。

あそこも「喪失の涙」にすり替えられています。

再び家族を失うなんて炭治郎が可哀想、という「同情の涙」「憐憫の涙」でもあります。

ですが本来、あそこは、甘い夢の誘惑を断ち切って過酷な現実に帰還しようとする炭治郎の心の強さに感動すべきシーンであったはず。

では、なぜ、現実へ戻ろうとするのか。

それは、現実世界には、守るべき人たちがいるからです。

炭治郎の、守るべき人たちへの愛の強さを感じ取り、観客は感動して涙するのです。

魘夢が見せた悪夢により、炭治郎が家族から詰られるシーンも同様。

炭治郎の陥れられた状況の悲惨さを強調することで、「同情・憐憫の涙」を誘っています。

そのため、家族の愛を微塵も疑わない炭治郎の心の強さがぼやけてしまい、魘夢の台詞――「癪に障ってくる感じ」が響いてきません。

炭治郎の心の強さは、人の心の弱さにつけ込む魘夢の悪辣さとの対比で見せるべきです。

原作を補完するなら、「強制昏倒催眠」で眠らせることのできない炭治郎の心を折るために、彼の家族を利用して悪夢をでっちあげた魘夢の意図を明確に描くべきでした。

 

前回の記事ではロードラマ的な演出手法について批判しましたが、手法の是非より前に、「観客を泣かせる」ということに関して、ufotable は何か思い違いをしているのではないか。

そのように思えてなりません。

「喪失の涙」ではなく「感動の涙」を流させてくれ。

これはもう本当に、切にそう願います。