自分軸で生きると、人生が楽になる――
メンタルヘルス系のブログなどで、よく目にするフレーズです。
だけど、正直、「自分軸」って何か、わかっていません、私は(笑い)。
自分の意志や価値基準を優先する、他者からの評価に重きを置かない、といった意味合いであることは理解しています、一応は。
解説文を読めば、そう書いてありますからね。
「知識」として、「理屈」としては理解できますが、「実感」や「体得したもの」として理解しているかと問われれば、ノーと答えるしかありません。
つまり〝わかっていない〟のです。
自分がわかっていないのに、他者に対して「自分軸で生きることが大切」とは言えません。
言ったら不誠実というものでしょう。それは、中身のない、上っ面だけの言葉ですから。
だから、これまで、「自分軸」という言葉は、ブログで使用していなかったはずです。
多分、そのはず(ドキドキ)。
過去記事、読み返さなくていいですからね。
「自愛」というのも、突き詰めると、よくわからなくなりますね。
「自分を愛する」と書いて「自愛」。
自分を愛するって、つまり、具体的に、あるいは本質的に、どういうことだってばよ。
そもそも、愛するって、どういうことよ。
「愛」とは「理解すること」――とりあえず、そのように定義づけてはいるものの、これは誰だったかの受け売りだしなあ。
自己の「実感」や「内奥」から出てきた〝感触〟を自ら言語化したものではないからなあ。
早い話、借り物の言葉だってこと。
「自分軸」とちがって、「自愛」はちょくちょく使っていますね。
「ご自愛ください」なんて、わりと気軽に言ったり書いたりします。
便利な定型文みたいに。
不誠実をやらかしてしまっています。
いいかげんな言葉を使ってしまったこと、まことに申し訳なく思います。
「自愛」に関しては、自己の内奥より湧き上がってきた〝感触〟がありましたので、言語化してみます。
こういうのを〝気付き〟って言うのでしょうかね。
自分を愛するっていうことは、自分の人生――これまで生きてきたことを、そのまま、まるごと肯定することなのではないかな、と、そんな思いが急に湧いてきたのであります。
今まであった嫌な出来事も――
今まで会った嫌な人物も――
何ひとつ、誰ひとり欠けても、今の自分にはなっていないのだから、自分を愛するということは、出来るものならなかったことにしたい出来事も人物も、まるごと〝よし〟とすることなのではないかな。
あんな事さえなかったら――
あの人さえいなかったら――
そういうふうに思って、わが身の不幸を呪ったり、誰かを恨んだり、自己憐憫に浸ったり、架空の人生を空想することに時間を費やしているうちは、おそらく、〝自分を愛して〟はいないのですよ。
今の自分を否定して、パラレルワールドにいるかもしれない幸せな自分を羨んでいるかぎりは。
だって、それ、今の自分は不幸だって、自分で自分に判決を申し渡しているのと一緒でしょ。
大きな苦しみの渦中にいる人は、上の文章を読んで、苦しみを感じると思います。
そのような方は、傷を癒すことに専念するのがよろしいかと。
上の文章は、自分の内奥から出てきたものを言語化したまでであって、他の意味はありません。
絶対的に正しいと主張するつもりはありませんし、押しつけるつもりもありません。
私は、二重人格になりかけるくらいには心が壊れたことがありますし、自殺未遂をしたこともあります。
そういう苦しみのただ中にいる時分に、上のようなことを誰かから言われたら、絶対に認めず、怒り狂ったと思います。
この苦しみはそんな理想論で肯定できるほど生易しいものではないんだよ!って。
だから、もし読んで不快だったら、容赦なくスルーしてください。
最も受容しがたい人物・事物を、かけがえのない自己の一部だと心の底から認めることができたとき、苦しみの人生は反転して美しい色彩を帯びる――。
何というひねくれた仕掛けなんだろうね。
人生とは、魂がエゴに対して仕掛けた壮大なトリックなのかもしれません。