ジャン・ジュネの再来とまで呼ばれる新人女性作家・塁と、平凡なOLの「わたし」はある雨の夜、書店で出会い、恋に落ちた。彼女との甘美で破滅的な性愛に溺れていく「わたし」。幾度も修羅場を繰り返し、別れてはまた求め合う二人だったが……。すべてを賭けた極限の愛の行き着く果ては? 第14回山本周五郎賞受賞の傑作恋愛小説。発表時に話題を読んだ受賞記念エッセイも特別収録。
この作品はいろんな方が推されているのをよく見かけるので買ってみました。
多分読む人間によってかなり評価は分かれると思うのですが、私は読み始めからぐいっと惹き込まれてしまいました。
普段、恋愛小説にはほとんど興味がなくて、対象が異性であろうが、同性であろうがちょっと冷めた目で見てしまいます。
ましてや性描写は不得意と言っても良いくらいです。
中山可穂さんの作品は女性同士の恋愛話がとても多いし、性的な描写もふんだんにあります。
それが私をうんざりさせないのは何故なんだかいつも不思議に思っています。
人が何かを求める気持ちの貪欲さを描いていても、中山さんの文章は終始美しい。宝石のような文章なんです。
だからかな。
私が恋愛小説が好きじゃないのは実は自分がとても情熱的、感情的な人間だとわかっていてそれを理性で閉じ込めているからです。誰かを天国も地獄も一緒くたになるくらい好きになったらおしまいだし、そんなことがあってはならないと思っているところが私の心の中にはある。
そんな私の想像する【おしまいの形】が中山さんの作品にはいつも書かれている。
私のできないことを私の代わりにやってくれていると思い惹き込まれてしまう。
OLのクーチと小説家の塁は六本木の本屋で偶然知り合い恋に落ちる。
クーチには学生時代からの知り合いでもあり恋人でもある男がいるわけだけれど、ものすごいスピードで塁に惹かれていく。
塁は社会生活不適合者みたいな人だし、私から見ればクーチはそれ以上に自分勝手な女なんじゃないかと思う。
そんな二人の好きで好きで好きで憎いみたいな気持ちが激しく伝わってきて胸が苦しくなる。
私は常日頃恋愛なんか人生の中で大したことじゃないと思っている。
でもこんな相手に出会ってしまったらもう行くも戻るもできなくなっちゃうだろうと思う。
最後の方は現実的に読んでいくとこれってどういうこと?という感じなのだけれど、心象的なことが描かれているんだろうと思うと納得する。
中山さんの作品には純愛が描かれている。純愛っていうものは綺麗なものというより残酷で不合理的なもので、純愛を突き詰めればむしろ不幸になる可能性の方が高いんじゃないかと思う。
普通は適当なところで妥協するから人生や生活がうまく回っていく。
しかし妥協を許さないのが純愛なんだと思う。
あとがきに、
わたしはフェミニズム運動にもゲイ・パレードにも二丁目にも興味はない。
とある。
とてもよくわかる。
自分が誰を好きになるか、何が自分の幸せかという問題はとてもプライベートなことであって、それを過度にフェミニズムやジェンダーに結びつけて何かを描けばそれは思想的な運動になる。
それは中山さんらしくないし、私も好まない。
ただ破滅するしかないほどに誰かを好きになるという実際の自分にはできない事を読んで感じて心を揺さぶられて、今はぼーっとしている。