平成も残り数日となりました。改めて日本の年号について考えてみたく思います。


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 令和の出典は『万葉集』巻5[梅花歌卅二首并序]。大伴旅人の大宰府梅花宴序にある「于時初春令月氣淑風和」からと言われています。1300年続く日本の元号史上初めての、中国古典ではなく国書による出典であるというのが大きくクローズアップされました。「それはどこまで真実なのか。そもそも万葉歌人が参酌した漢文があるのでないか?」。世間でいろんな見解が飛び交いました。
  

有力説として<後漢の詩人張衡(78139)が著した『帰田賦』の「仲春令月時和気清―仲春のよき月に時はなごみ気は清む」がさらなる出典か?>には説得力がありました。帰田賦』は梁の昭明太子が6世紀初に編纂し、古代東アジア知識人が必携した『文選』に掲載されています。

 

 万葉集は大伴家持らが8世紀末つくりました。時代が随分違います。文字の伝来は朝鮮半島が紀元前1世紀で日本列島には2-3世紀といわれ、土器に記されたこれらも文字と認識されていたかは不明です。史書では応神天皇の5世紀初、百済の使者王仁が論語と千字文を献じたのが最初と記されています。いずれにしても文字とは漢字のことであり、その習熟度の程度は想像するさえ難しいものがあります。とは言え、大伴一族は歴代の漢文を知っていて当然であり、なまじオリジナルにこだわるよりも本家に典故を求めるほうが、読書人らしいと思われます。

 

中国文学者や中国思想史の専門家たちは、これに加えて王羲之の『蘭亭序』の可能性も挙げており、張衡や王羲之の文章のさらなる典拠として『礼記』の経解編や月令編も引用されています。中国四千年の歴史の深さといったところですね。
  

 国書だろうが、なんであろうが同じことです。日本文化は一千年以上も漢字(及び漢字からつくられた“かな”)によって構築されてきました。万葉集からの引用といっても、万葉仮名という表音文字で書かれた和歌ではなく、表意文字である漢字で記されたー和文英訳ではなく和文中訳の文章です。これでは世界に向かって「純正国産」とは大声で言うのは恥ずかしい。だから、国内専用で喜んでいるのでしょうが。

 

 西洋列強が地球上の植民地分割競争を始めるまで、東アジア言語圏は漢字文明に浴していました。第2次大戦後、ベトナムや韓国などは血のにじむような思いをして、漢字を捨て文字の民族化を成し遂げました。日本でも議論はあったのですが、結局は漢字を捨てることができませんでした。どうでもいいことではありません、表現の道具は表現者の思いを制約します。平安の昔、日本人は独自の国風文化を形成したと言われています。しかし、それは漢字の祝福と呪詛に満ちたものであったがゆえに、「純血にあらざる孤立」を甘受するものではなかったでしょうか。

 

 さて、年号の是非そもそも論です。計算も苦手、記憶力も乏しいわたくしにとって、歴史の勉強が面倒だっただけではありません。80年代バブルや90年代氷河期とはいっても、年号年代での時代区分は聞きません。換算する意味がわからなくなっています。そんなことで時間を奪われたくない“どうにかしてくれ!”。今日にあっては合理性からほど遠い概念だと思います。
  

 しかし、わたくしは思想転回したのです!

 

 世界で年号なるもの―前回(その1) の定義始めと終わりのあるもの―、現に使っている国はわが日本だけであることを知りました。こうなったら話は別です。生命を守る医師としての職業倫理からいっても、絶滅危惧種は保護されなければなりません。現代における便利で合理的なものは、ほとんどの場合(文明的かもしれませんが)文化とは相反します。AIによるシンギュラリティがささやかれる今、人間の文化は守られなければならないのです。

 

始めがあって終わりがあるということは、「いずれなくなるもの」。人であり、命あるものにとっては、それは諦観と死に帰結します。ひとつの年号が百年続くはありえません。人の生は儚い、はかなきものには「あはれ」があります。―若いころ「人が夢みることを儚いという」とか言っていましたよね。

 

「あはれ」は感動詞であり、「もののあはれ」は平安文化を一言で凝縮した観念です。令和をどうしろと言うのではありません。次の際、次の次にあたって、どうするかを考えましょう。こうなったら「純血」にこだわりましょうよ。

 

文化とは固有なるもの。日本だけのものとなったら「やまとことば」に「ひらがな」です。


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 さくら元年はどうでしょう? いまの頃なら、あやめ元年もいいですね。たまゆら元年、命の枕詞だからちょっと重いかしら。おもてなし元年、ちょっと長い。ゆるり、たおやか、おもむき、うっとり‥‥。いくらだって湧いてきます。  

日本はオノマトペ(擬態語・擬音語)も豊かな国です。わくわく、ふわふわ、わぁい、うふふ、おほほ……。日本のマンガ・コミックは世界を覆いました。  

極東の島国ならでは、東端からずぃーと世界を眺め通して、やわらかい、すがすがしい、うるわしい、時代感覚をもたらす言葉を、人類のすべてに提供できるに違いないのです。

 

「純血からの連帯」から出発して「みんなが手を取り合う美しいことば」をともにできるようになれば素晴らしいですね。