過去にもこのブログに掲載しましたが
あらためて、以下に張り付けておきます
私は常々、
特に新年度序盤のワークセッションでは
「クソボールでいいから、とにかく球を投げよ」と言っています。
その趣旨は
- 「相手に帰納推論させろ」
- 「場に帰納推論の機会をもたらしてほしい。誰かの見解を、ほかの誰かが受け止め、解釈する。その解釈を、また別の誰かが受け取り、解釈を重ねる。そうした「帰納(=ということは)」と「演繹(=たとえば)」をグループ全体で回すことができれば、場全体は驚くほど知的創造性が高まるはず」
- 「自分が繰り出した発話で相手が帰納推論できるかどうかはわからんが、しばらくの間は、そんなことはどうでもいい。ともかく、なにか材料がなければ帰納推論のやりようがない。帰納推論のきっかけすらない。まずは、とにかくなんでもいいから球を繰り出せ。球の質を問うのは、もっと後でいい」
- 知識創造の場において、他者の見解を受ける一方で、自分からは何も発信がない人間に存在価値はない。(注.あくまで「知識創造の場において」という条件下の話。一般論ではない)
といった意味です。
いろいろダラダラ書いてしまいましたが
要は、「帰納推論させろ!」です
クソボールでもなんでもいいから
なにか球を繰り出す
という第1段階をクリアしてくれれば、
次は、
「Stege2.帰納の鍵(=抽象化の勘所)」
「Stage3.演繹の鍵(=具体化の勘所)」
に移行できる。
しかし、
クソボールすら繰り出すことができないような状態では、その本人をnext stageに招待できない。そんなことしたら、それこそ、原理・原則だけをグルグル回る「理論かぶれ」を量産するだけ。
「わかる」と「できる」は雲泥の差。
「頭では分かる」というだけの人間を量産するつもりは、毛頭ない。
いまいちど、
「なぜ、いま、クソボール投げを意識づけする必要があるのか」
あらためて考えてほしい。
「帰納と演繹のセット」を自ら遂行できたなら、
もちろん、それが理想的。
しかし、それは高度な地アタマの賜物。
コンセプチュアル・スキルを養う教育をまともに受けてこなかった人間にいきなりそれを求めても、そりゃ酷だ。
さすがにいきなりそこまでは求めない。
それは求めないけど、
「受け身姿勢で発言が少なく、メンバーに帰納推論を促すことすらできない」というのは、大前提すら満たしていない。率直に言っていかがなものかと思う。
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