最近、

「感受性」という言葉が頭を駆け巡っています。

 

五感をフルに使って、

体いっぱいに感じ取る。

そうすると、これまで感知できなかった音が聞こえる、香りを感じる、視界に情感豊かな色合いを感じる。それはとっても豊かな認知の営み。素晴らしいことだと思う。

 

前回ここに来たのは

2010年だったと思う。

研究室学生と一緒に来て、

長い時間、みんなで無言で、鳥居を見ていたことを思い出しました。それぞれが、いまの自分が何を感じているか、自分と向き合っていたような気がします。

 

懐かしい。

感慨深いです。

 

 

追記.

 

昨日、いろいろお話しをしていて、「感受性の主体的な伸び縮み」という話になりました。

 

感受性というのは、自ら意識することで、主体的に伸び縮みさせることができるのではないか。

 

感受性の伸び縮みを外力によって経験できる場はいろいろ様々にある。しかし、多くの場合、そのような感覚経験は、非日常的なハレの場に限られてしまう。

 

もし、それを日常化することができたら

どんなに素晴らしいことだろう。

 

常に新鮮な日常。

彩り豊かな感受性を堪能する悦びの日々。

それはきっと、広く一般の潜在ニーズ。

 

「大衆化」の鍵は、

「主体的な感受性の伸び縮みの、日常化」といえるのではないだろうか。

 

 

主体的な感受性の伸び縮み、かぁ、、

 

そんな観点から

さきの風景と向き合ってみました。

これに自分は何を感じるか。それを意識して向き合ってみました。

 

なるほど。

 

これは、ある種のメタ認知発動なのかもしれない。そう思いました。

 

自分の感覚の営みを、

もう一人の自分が感じ取る。

そのようなモニタリングが、

自らの感覚の営みをさらに活性化させる。

 

自分の感覚がどう反応しているのか

ということを強く意識する。

 

すると、

海と空の借景に佇む厳島神社から

ものすごく彩り豊かなインプットを得ることができたような気がして、正直びっくりしてます。

 

-------3/9追記-------

 

その後、今日に至るまで

周りを見る際、目を大きく開いて一つでも多くのことを感じ取ろうと意識するようになりました。まるで目薬を点眼するときのような見開き具合です。あはは。

 

あ、、

もしかして

「目いっぱい」という言葉の意味って、こういうことなのかしら?調べてみよー(^^)

 

視線の繰り出し方だけでなく、

 

嗅覚も効かそうと

ゆっくり深く呼吸するようになりました。

それまでの自分がいかに短く浅い呼吸をしていたかつくづく実感しました。

 

それから、

歩いている時に

手を開く、握る

を意識的に繰り返して、

触れたときの感覚を感じ取れるようにしていました。

 

無意識すぎる所作がいかに多かったのか、

そして、一つ一つの動作に意識を向けると、想像以上に外の世界から感じ取れる情報が増えるんだなということにビックリしてます。