龍のスピリチュアル・ライフ in 京都 -6ページ目

龍のスピリチュアル・ライフ in 京都

Spiritual Life of Ryu in Kyoto
時々 堂禅庵かも?!

 

望月麻衣さん著作の【京洛の森のアリス】のコミックのチラ見できるサイトをパートナーの縁が見つけて、

何かエッセンスがあるのではと文庫本のほうの【京洛の森のアリス】を読むことになった。
著者の望月麻衣さんは、あとがきでジブリのようなファンタジーを書きたいという話しの流れからこの作品が出来上がったそう。

 


個人的に読んだ印象としては、

この世に存在する宇宙法則(物語中は森羅万象と表現されてる)をシンプルに表現して

実在しない世界と組み合わせて物語にされてるという感じ。

この物語の【京洛】の世界では、自分を偽ってはいけない。
心からやりたい事をやらなければならない。
でないと、老化が進み、この「京洛」の世界には住めないようになる。

さらには、お金が無い世界。
功徳を積み、その徳によって、ごはんが食べられたり住んだりできる。

仕事をしない者は、この世界に住めなくなる。

そして、他者にとって自分が必要な存在であること。

大まかにこれぐらいの法則があって、その法則に主人公のありすが沿いながら物語が進んでいく。

今、現実のこの世界は、自分がやりたい仕事だろうが、やりたくない仕事だろうが、

お金を稼ぐために仕事をすることが優先順位が高くなってないだろうか。
これでいいのか?

今の世の中お金で縛られていて、結婚をして家庭を持ち、家庭を維持するために働けば働くほど貧乏になっていく

というなんともおかしな世の中。

誰かが創り出したお金というシステムの上で生活をしているからおかしなことになる。

でも、スピリチュアル的な発想で言えば、この現実と思っている世界は自分の内的な反映なのだから、
自分の内を変化させてやれば、「京洛」のような世界が成り立つのではないかと思う。
偽りの自己ではなく、真の自己を蘇らせ、自分が現実のこの世界に降り立った意味を思い出す。
この世界に降り立った意味とは、自分がやりたい役割とも言い換えることができる。

例えば、この本の著者の望月麻衣さんは、この世界に森羅万象という法則をわかりやすく

多くの人に伝える役割を担っていると言えばわかりやすいのではないかな?

作家だから特別ではなく、誰か一人にきちんと伝えることも重要で、

親が子に法則を教え、守らせる役割は、誰だろうが関係なく親になる人が持っている役割。
このように、既婚、独身に関わらず、人と接して生きていくからには全員が何かしらの役割を持っているはず。

にもかかわらず、自分を偽って生きている人がいたらどうだろう?
その人とまともに向き合って何かを学ぶということをしようと思うだろうか?
思わないでしょ。
だから自分に正直に心からやりたいと思うことをやるような生き方をしないといけない。

しかも、それが人のためになることでないとやる意味がない。
一人だけで満足できることをやりたいならば、この地球に降り立つ意味がないと思う。

およそ70億人もいる地球で、誰とも接することなくたった一人の世界を創る意味がどこにあるのか?
意味があるならやればいいけど…。

人のためになるってことは、自分が他者に必要とされる存在ってことになる。

これって重要なキーワードで、自己価値につながる。
自己価値が低いと、他者に承認欲求が出る。
承認欲求のために迎合したり依存したりと5~6歳のうちはいいけれど、大人になってからは非常に厄介なもの。
人生を破綻させる人もいるぐらい。

自分が生きている意味を見出すためにも、まず自分を偽らずに自分の役割を全うする。
自分の役割を全うすることが、実は他者に必要とされる存在になっている。

つまり、法則通りに生きているということなので、その人を見れば法則がわかる。
なので、法則を見る上でその人がお手本のような存在であり、他の人に必要な存在になるという理屈。

でも、自己探究してても法則通りに生きるって難しい。
なんせ、探究を始めるまで、法則を無視して好きなように生きてきているので、偽りの自我の欲求が勝ってしまう。

それもいまだに…。
そこを自分で躾していくのが探究なんですけどね。( ̄▽ ̄;)アハハ…


このように考えていくと、「京洛の森のアリス」は勉強になりました。
法則をシンプルに捉えて表現された世界。
自分の内的な世界を学ぶ教材としての価値があるんじゃないかと思った。
ファンタジーの世界を描かれてもいるので、大人だけでなく、子供にとっても十分に理解できるし

そこから自分たちが住んでいる世界へと置き換えも簡単にできる内容。

あとは、この本を題材としてまた法則をより深く理解できたので、その体現を楽しんでやっていくだけ。
これが私の役割でもある。

さて、次は天花寺さやかさん著の「京都府警あやかし課の事件簿 4」を読み始めますか。
どんなエッセンスが詰まっているのか、ワクワクが止まらない~!!

 

 

“京都を宇宙法則で使いなさい”
突然な高次元の存在からのお達しに、へ?!としか反応できなかった。

まったく意味がわからず、ラブスピース(Love Spiritual Peace)で深めてみるも???
それから10年あまりが経ち、ことあるごとに出てくるメッセージではあるけれども
未だに意味を把握しかねてるメッセージの一つ。

そのメッセージに、ある動画からエッセンスを見つけた。

その動画が「考え方の学校 Yoshi Sun TV」さんの

【シンボルの本質】我々の祖先が残したシンボルを求めた先に|旗揚げ!


という動画。

この動画の中に、京都の秘密というのがあり、そこで出てくるのが
【生命の樹】と【33】という数字。
【生命の樹】のスタート地点が三十三間堂という話しから始まる。
なるほどなと感心した動画で、こんな見方もあるのかと思った。

それから2か月した8月の半ば。
さらに深いエッセンスを引き出せる動画に出会った。

その動画が「いか/ ika」ちゃんの

【関暁夫】やりすぎ都市伝説 サグラダファミリア完成が転換期

最初は、何となく見ていたのが、途中からエッ?!エッ?!
これって“京都を宇宙法則で使いなさい”に何かしらのヒントをもらってるかもと思った。

この動画は、やりすぎ都市伝説の関暁夫さんの話した内容をいか/ikaちゃんなりに考察したもの。
でも、それを京都に当てはめる・・・、いや、当てはまるのでは?!と思うところがいくつかあった。

動画の概略は、

・【鉄】というのがキーワード。
・鉄の原子番号は26.
・クババ、人間をキューブに閉じ込めた存在。
・クババのかぶっている帽子には13花弁の菊が2つで26.
・クババは、kubaba(クババ)→kuba(クーバ)→kube(キュベレ、クーベ)=知識の保護者を意味し、

 キューブに関係しているのではないか。
・クババのキューブこそが物質文明を現す黄泉の国
・産業を発達させるのに欠かせなかった物質、さらに結晶構造が立方体ということでも鉄がつながってくる。

だいたいこのあたりが26にまつわる話し。
で、次にくるのが【33】

・33は、物質文明の頂点を意味している。
・サグラダファミリアの受難のファサードには、1列の数字を足すと33になる謎の魔法陣がある。
・サグラダファミリアの完成は2026年。
・サグラダファミリアが完成した時には鐘がなる、その時が【時代の転換期】。

簡単に掻い摘んでこれぐらい。

これらと京都がどこでつながるのかというと、

まず【26】
日本には「全国地方公共団体コード」というのがあって、
そこには、

 

都道府県コード及び市区町村コードは、情報処理の効率化と円滑化に資するため、コード標準化の一環として、総務省(当時:自治省)が昭和43年に全国の都道府県及び市区町村のコードを設定したものです。
     --総務省のホームページより抜粋--


とある。
なんかややこしいので、もっと簡単にいうと、
パッと思いついたのが、全国高校駅伝とか、全国退会の競技で各都道府県の選手がつけてる番号が「全国地方公共団体コード」にあたると思ってもらったらいいかも。
(参考に京都の市町村コードのリンクをつけておきます。)

次に【キューブ】
これでピンときたのが【平安京】
平安京は東西約4.5km、南北約5.2km、1:1.16ぐらい比になるから正確には正方形ではないので、これは微妙かも…。
でも平安時代の区画は、約120m x 約120mが基本だったので、あながち関係ないとは言えないと思う。

次に【33】
「考え方の学校 Yoshi Sun TV」さんの動画にもでてきた三十三間堂が一つ。
その三十三間堂に祀られているのが「千手観音座像」
その周りには、「千体千手観音立像」
つまり観音さんだらけ。
観音さんと言えば、
 

法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身すると説かれている。
     --ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋--


ここにも【33】が隠れている。

ここまで出てきたけど、とっ散らかしただけで、実はオチがない。
ちょっと考えてみますか。

最初に、26でありながら、なぜ長方形なのか。
ひょっとしてそれは、人間を閉じ込めようとはしなかったからかもしれない。
 

ヤハウェ・エロヒムがアダムとエヴァをエデンの園から追放した理由は、知恵の樹の実を食べた人間が、生命の樹の実までも食べて永遠の生命を得、唯一絶対の神である自身の地位が脅かされる事を恐れたためである。

     --ウィキペディア(Wikipedia)より抜粋--


とあるけど、我々ラブスピースでの探究では、神へと帰還するのが本来の道としている。
つまり神と統合されることになる。
それなら神の地位を脅かす存在になるはずもない。

だからキューブに閉じ込めず、そこから抜け出せるように長方形にしたと仮定する。

そして、観音さん。
西国三十三所巡礼の起源にこんなお話しがある。

養老2年(718年)大和国長谷寺の開山徳道上人が病にて仮死状態になられた際に、
冥土で閻魔大王に会い、「生前の悪い行いによって地獄へ送られるものが多い故、
観音の霊場へ参ることにより功徳が得られるよう、

人々の観音菩薩の慈悲の心を説け」とのお告げを受け
起請文と宝印を授かって現世に戻され、その証拠でもって人々に観音信仰、

及びその霊場へ参ることをすすめられた。

さらに西国三十三所 草創1300年「いまこそ慈悲の心を」
 

 私たちは、物の豊かな時代にあって、さまざまな歴史や文化を背景とした異なる価値観が交差し、急速に変わりゆく現代社会の中で、忙しく毎日を生きつつ、人間である限り、国や時代を問わず、幸せを願いながら悩みや苦しみ、不安な気持ちをかかえて過ごしています。
 このような時、西国三十三所の観音菩薩にお参りし、手を合わせることによって、心の中に波立つさまざまな苦しみや悩みがしずまり、自分自身を見つめ直し、人を思いやる慈(いつく)しみの気持ちをもつようになり(現世安穏)、そして、観音菩薩の御前で心をひらくことによって、それぞれの人生をふりかえり、心を洗い清めれば、極楽往生の一歩となる(後生善処)でしょう。


と書かれている。

つまり、観音さんから慈悲の心を学び、心をきれいにすれば【極楽往生】へとつながる。

これこそが三十三間堂につながる最重要なキーワードと考えている。
三十三間堂は、後白河上皇が戦乱の世に極楽往生を求めてやまなかった祈りの場所らしい。

つまり【33】は、物質文明が頂点極め、意識の転換が始まる数字ではないだろうか。
故に、生命の樹のスタート地点にもなっている。

京都という地のエナジーにより、各々の物質への依存が頂点を極め、意識の転換が始まる。
観音菩薩が表現する慈悲の心を培い、根源への信仰を厚くすることで、自らの存在を霊的な存在として受け入れる。
そして、生命の樹へ昇るように、クンダリーニの昇華が始まり、根源へと帰還の道を辿る。

まとめとしては、こんな感じだろうか。
まだまだ足りないとは思うけど、今日のところはこれまで!!

チェキ!!


もう9月になりました、秋になったら気温が少し下がったかな?
まだ夏が続くのか…と思ったら、過ごしやすくなったのに、少し寂しい夏大好き男の龍です(笑

記憶は蘇るのか 第3弾 柳の水に行ってまいりました!!
と言っても、行ったのは実は8月3日なんです。



何かの用事で近くに行くとなったので、汲んできました。

場所は馬場染色工場内にあります。
飲みやすいお水で、味も癖がなかったと記憶してます。

今回、2Lのペットボトルに2本汲んだのですが、飲むのがなかなか進まない。
何かあるとは思いつつも、際立って特に大きな変化はないように思えたが…。

ラブスピース(LoveSpiritualPeace)丸ごと変化が起きてきた。

水を飲みだして1週間から10日ぐらいすると何かしらの変化が見えるのだが、
今回は大きな抵抗が生まれた。
変化が起こり、何かしら一皮剥けるときに起こりがちなことであるけども
それを毎日になると、しかもお盆の最中で一日動けるはずなのに
法則に沿わない具現を起こし、その話し合いのためにPC前に釘付け。

その後、ある探究者のエナジー的に禊をすることになったのだが、そこでまた問題が…。
私ともう一人が憑依されているとメッセージがあり、それを祓わないと禊に立ち会うことができないと言われた。

高次元の存在からある提案があり、ある場所を借りて祓うことを行うことになったのだが、他の探究者が確認もせずに、あることをやってはいけないタイミングでやってしまう。
またまたこれもうまくいかない。
後日、もう一度私だけがチャレンジしたのだが、今度は持つべきものを持たずに場に立ち、またもや×。
(詳しことが書けなくて申し訳ないです)

で今に至る。

めちゃくちゃ大雑把にしか話せないことなので、かなり割愛してますが、とにかく何かしらが動き出しているのがわかる。
で、変わりたくないと思っている自分が抵抗を示した1か月でした。

しかし、悪いことばかりではなかった。

パートナーの縁がInstagramにも書いていた【さるや】【申餅】の話しにつながるのです。

この下鴨神社と関連しているのがまたもや【あやかし課】

 


葵祭の斎王代と蜘蛛(嫉妬)、まさる(魔が去る)、青龍、夜明け…。
簡単にキーワードをあげれてもこれだけ。

これらがラブスピースの探究の流れと合致して、方向修正され、いい流れが生み出され始める。
まだやり残しが目立つけど、それらを対応しながらも先に進める目処がたったのがなんともうれしいかぎり。

これも根源からのギフト以外何ものでもない。

でも、またもや事件が…
やるべきことをきちんと行わないから起こる。
自分の人生に対して、きちんと責任を取り、そこから逃げずに生きていく。
これしかない。
この地に生まれてきた意味があり、やりたいことがある。
しかし、記憶を忘れて生まれてきたものだから、その記憶に目覚めるまでに時間がかかる。
場合によっては、何度も転生を繰り返す。
転生を繰り返しながら少しずつ成長をしていくのが普通に生きている人の道だと思う。

しかし、ラブスピースは縁という高次元の存在とのパイプがいるが故、必要なことを指し示され、行うべきことをメッセージでもらう。
そのメッセージを受け入れ、いかにすぐそれに取り掛かれるか、そして、不要な癖を手放せるか、自分の意識を変えられるかなど、直球で進めるのがラブスピース。

(やるからやらないかは、本人の選択ですが、やらないと…まためぐって来るだけ)
この湧き水の蘇りの道が、ラブスピース全体の探究とリンクし始めている。
この先の全体の成長がますます楽しみになり始めた。
積み残しがないように、十分気をつけて先に進んでいこう!!

 

ある日、パスワークを読んでると

 

 

「自分は実際のところ何者なのか」

という文字が目に飛び込んできた。

どこかで聞いたことがあるような…あっ!?

「俺は誰?」

や、何でまたこんなところに…と思いながら読み進めていくと、



真の自己と偽りの自己とが一致せずに争った結果です。
この重大で深遠な疑問が解決するやいなや、

生命の中心は全力で反応し、機能するようになり、直観も完全に働くようになります。
あらゆる衝動から解放されて自然にふるまえるようになります。
また、感情は成熟した、成長したものになりうるので、自分の感情を信頼できるようになります。
感情はあらゆる点で、論理的思考力や知性と同じくらいに信頼できるものとなるでしょう。
                                             --パスワークより抜粋--

 

 

とある。
つまり、真の自己へと戻っていく過程で、自らが創造していた偽りの自己が剥がれた瞬間のことではないかと推測できる。

そうなると、俺は誰?で書いていた【軽い憑依】というのが間違いになってくる。
そもそも偽りの自己は必要なく、真の自己だけでいいのにも関わらず、偽りの自己を創ってしまうのが問題。
いやいや、問題などというレベルではなく、【大問題!!】。

この【大問題!!】が、生きていく上で、まっとうに自己責任を取らず、霊的な自立をせずに、誰かや物に依存したり癒着したりすることにつながっている。
霊的な教育がなされないまま、結婚し、子育てをしていくから起こっているのだと思う。
子どもは衣食住を与えれば、身体は大きくなり、年も取っていく。
しかし、そこには心の問題が抜け落ちているのが今の日本ではないだろうか?

親子での真の愛情の欠落が、偽りの自己を創ってしまう。
自分が育った環境の中で、自分が生きていくために身に付けなければならなかった自分の守り方が【偽りの自己】となる。

すでに偽りの自己が本当の自分と思って生きている。
ならば、そこから抜け出せるように霊的な探究を行うべきなのだが、真の自己を知るための探究を本当に始める人は少ない。

自己探究を行い、偽りの自分に気づき、本当の自分に戻るために自分の癖を知り、その癖を改善し霊的に成長していく。
その結果、真の自己が蘇っていく。
簡単な道ではないけど、やりがいがある道とはっきり言える。

高次元の存在から聞いた話しでは、人間に転生することは、非常に霊的な学びが大きいらしい。

故に、人間として生きているうちに、霊的に目覚めたいのがスピリットの本音ではないだろうか。

話しが自己探究のほうにズレてしまった・・・。
話しを戻すと、

偽りの自己を創るのは、生まれた環境下での自己防衛であり、自分を傷つけないための唯一の手段。
つまり偽りの自己は、真の法則の下で創られているわけではない。
故に、「こうすれば相手に愛してもらえる」とか「ああすれば自分が傷つかないですむ」といった類の自我的欲求がふんだんに盛り込まれている。
しかもパスワークによると、完璧さを求めるために、さらに理想の自己なるものを創っていると書かれている。
その理想の自己は、完璧さを求めるため、偽りの自己に様々な要求をするらしい。
(詳しくはパスワークを読んでください)

このように、自分だと思っていたものが、実は【偽りの自己】や【理想の自己】。
本当の自分だと思っていたものが、実は幾重にもコートを着るがごとく存在している。
この事実を知れたことで、大きな間違いに気づけた。
何かしら問題を抱えている部分を危うく【憑依】のせいにし続けるとこだった。
【憑依】があるから自分はうまく生きられていない…とかいう部分。

【憑依】を引き寄せるのは、自分の考え方と共鳴するから引き寄せるのであって、

共鳴もしないのに、【憑依】が起こることはないのではないかと思っている。

あれ?!
幾重にもコートを着るがごとく自分を守るって
【北風と太陽】の童話に似てる?

北風が強風でコートを飛ばしてやろうとするも、人間はコートが飛ばないようにとしっかりとコートを押さえる。
しかし太陽は、人間を温めてコートを脱がし、太陽が北風に勝つという話ですよね。

北風のように冷たい言葉や仕打ちを行うと、人は防衛をするけど、
太陽のように温かい言葉や行いをすると、人は防衛のためのコートを脱いでいく。

まさに原理。
自己探究で自分を温め、愛してあげると、偽りの自己をひとつずつ脱いでいくことになる。
なんか探究の原点に戻った気分。

【偽りの自己】から【真の自己】へ目覚めるために、どんどん自分の癖を知り、霊的な改善をしていく道を

この先も楽しんでいこうと思う!


先日、探究のエッセンスで【第十二の予言】が出てきた。
しかし、本棚を探してみたものの【第十二の予言】が見当たらない。

 

 

どうやら持っていないようなので、在庫を調べ、京都駅近くの本屋さんへパートナーの縁と買いに行った。

縁は本屋さんが大好きで、いつも精神世界系の本棚のところで新たなエッセンスがないかと色々な本を見て廻る。

縁がある一冊の本のタイトルに興味を持ち、
「何これ?ちょっと見といたほうがいいんと違う?」
と促す。

その本のタイトルが【スマホのエクソシスト】

 

 


目次を眺めてみて、中身をパラパラとみてみるも、イマイチよくわからないので、

もう一度目次に戻ってみると、[正しく言葉を使うこと]という項目がある。

「よくわかる~!ウソつかへんことや!」と言いながら、内容をチラ見してみると、言っている内容は違ってた(笑

なぜ正しい言葉を使わないといけないのかを考察してみた。

探究を始めて、ブログを書き始めたのが2006年、2005年かな?だいたいそのあたり(笑
探究とほぼ同時に書き始めた。

ある時、こちらの言う意味と相手が受け取る意味が違っていることがあることに気がついた。
なんでかなと観察し始めると、相手がこちらの言うことを正しく受け取ってくれていると思っている

のが最初の間違いになっていることに気づいた。


ということは、こちら側が正しく相手に伝えてないとなる。
正しく伝えてないとはどういうこと? となった。

正しく伝えてないということは、言葉の意味を正しく使ってないということに行き着いた。
つまり、何かを表現したいときに、適切な言葉を正しく用いて表現、コミュニケーションをしていない。
そうなると、今まで使っていた言葉や表現を使うのが難しくなり、表現することに躊躇が生まれてきた。
そして、そのことがきっかけでブログが書きにくくなり、ついにはブログが書けなくなっていまった。
という過去の経緯があったりする。

言葉、つまり言語とは

人間が音声や文字を用いて思想・感情・意志等々を伝達するために用いる記号体系。
およびそれを用いる行為。
音声や文字によって、人の意志・思想・感情などの情報を表現したり伝達する、あるいは他者のそれを受け入れ、理解するための約束・規則。
および、そうした記号の体系

とウィキペディアにある。

例えば、
怒っているのに怒ってないとか、悲しいのに悲しくないや大丈夫とか、人は色々なところでこのような正しくない表現を使ったりする。
その場を取り繕うためであったり、事を荒立てないようにするためだったり。
そのほかも色々とあるでしょう。

その時の状態を表現するのに正しい言葉を使わないで誤魔化した表現をするとき、何を期待しているのか?
自分を良く見せたい、怖いから逃げたい、慰めてほしい、他にもあるでしょうが、結局のところ嘘をついて【自我欲】を満たしているのではないかと思う。

【自我欲】を満たそうとしたために、結果、後悔を生んでいたり、後腐れがあったり、何かしらの念を残していることがかなりあるのではないだろうか。
時には、相対する人との【自我欲】と自分の【自我欲】が合致して、バランスが取れたりする場合もあるが、その関係はいつか破綻する。
片やが成長し、欲のバランスが壊れてしまえば、そこに留まる必要がなくなるからだ。

このような流れは一つの例にしか過ぎないとは思うが、[正しく言葉を使うこと]は意外に難しいと感じる。
言葉一つであっても、意味が幾通りもある場合もあり、一遍通りに使うわけにもいかない。
あるいは、一つの言葉に多くの意味を含んで表現する場合もある。

ちょっと考察をしてみただけなのに、まだまだ曖昧なまま言葉を使っているなと思う。
そこに絡んでいる【欲】を満たすために嘘をつく。
しかも、嘘をついた本人は嘘をついている意識がないかもしれないという危うい状態かもしれない。

[正しく言葉を使うこと]は自分の【欲】と向き合うことかもしれない。
そう考えると、[正しく言葉を使うこと]はやりがいのある探究だ。