昨日、寝ようと布団に入ったとたん、
【赦し(許し)は与える】
といきなり頭の中に浮かんだ。
よく考えてみると、なるほどと思える。
例えば、赦す(許す)対象となるのは、自分に対して何かしら害を及ぼした人になるので、両親や親族などの血縁関係者か友人・知人に対してが比率としては多いと考えられる。
見知らぬ人相手が対象となる場合もあるとは思うけど、考えるにおいてややこしいので今回は除外。
赦す(許す)必要があるということは、ケンカをしているとか、嫌ってるとか感情的に受け入れておらず、その人、もしくはその人の考え方などを排他している状態。
そんな風に思っている人に、わざわざ何かを与えようとは思わないのが人ではないかと思う。
私ならば、そんな人にできれば接触をしたくないし、しようとも思わない。
そこから考えると、与えるという行為は、まず相手と接触を自分からすることになるので、赦し(許し)てない人への態度と反対のことをしなければならなくなる。
与えることをするということは、排他的にならず、相手を受け入れないを止めることになる。
つまり、相手への赦し(許し)が始まらなければ【与える】ということはできない行為になる。
となると、
【赦し(許し)=与える】
になるってことか?
赦し(許し)は、愛を他者へ【与える】行為なのか・・・。
今、気づきました。
ただ、間違ってはいけないのが、赦す(許す)こと、与えることの動機が純粋でないといけないと思う。
例えば
夫婦ケンカを前日にしていたとしましょう。
次の日の朝、嫁さんがお弁当を作ってくれました。
嫁さんがお弁当を作ってくれた動機はどこにあるのか?
家計を気にして、仕方なく作った。
むかついているのをわからせるために、お弁当箱にご飯だけを詰めた。
自分のを作るついでに作った。
など
お弁当を作る理由もいろいろでしょうけど、動機ひとつで愛にも毒にも変わるのではないかと思う。
だから相手を赦す(許す)ときは、きちんと愛をもって誠実に赦す(許す)でないといけないのだなと新たな気づきをもらいました。
内なる根源に感謝です。