龍のスピリチュアル・ライフ in 京都

龍のスピリチュアル・ライフ in 京都

Spiritual Life of Ryu in Kyoto
時々 堂禅庵かも?!

Amebaでブログを始めよう!

 

アメブロからnoteへ引っ越すことにしました。

このブログにアップした記事も転記してしまう予定です。

完全に転記できたら、このブログは閉じようと思います。

 

短い間でしたが、ありがとうございます。

 

新しいnoteのほうも応援していただければ幸いです。

 

引っ越し先:

 

 

 

 


去年のいつ頃かは忘れたのだけど、右肘の調子が悪く、痛みが引かないのがもう何ヵ月か続いていたので、嫁の縁さんに肘のエナジー調整をお願いした。

その際に思いがけない話しをもらった。

私は、よく思い出す過去の映像がある。
それは、小学校3年生頃のことで、昼間、学校から帰宅した直後ぐらいの記憶。
部屋の中で、何の前触れもなく突然嘔吐した。
そして、汚した畳を自分で拭きながら、母親が居てくれればと悲しい想いをしたという記憶。

実はこの記憶が、自分の親に対して寂しさからくる様々な感情を抑圧していたから起こったことだと教えられた。

両親とも共働きで、昼間は誰もいないため、寂しい想いをしていたのだが、うちは貧乏(だと思っていた)だったため、親に無理を言ってはいけないと思っていた。

おもちゃをねだることもだめ、お菓子をねだることもだめ、仕事に出てる母親に寂しいと言うのもだめなど、色々なことを思っていたと記憶している。

その想いをオヘソ下の第2チャクラより少し下あたりに溜め込んでいて、その想いを溜め込みすぎて、溜め込むのが無理になったので、嘔吐したというのが事実らしい。

その記憶が蘇ってくるということは、その想いが未だに消化できていないということと教えてもらった。

もう50も過ぎたのに思い出すとは、抑圧された記憶は、どれほど自分の人生に影響を与えているのだろうかと思う。

この寂しさから至った想いが、親に頼らないということ。
言い方を変えると、寂しさから自分の身を守るための方法。

この影響が脚にきているとも教えてもらった。

すでに10年か20年か、どれほど前か忘れたが、歩いてり、走っている時に、右足に負担を掛けているというのに気づいていた。
右足だけを頼りに歩いたり走ったりしている感じで、右のふくらはぎの外側に張りや疲労感をよく感じている。
しかも、必ず右足だけ。

それに気づいてから、意図的に左足に重心を持つように意識して歩いたり走ったりしてみるが、いつの間にか元の癖に戻っているの繰り返しで、最近ではそのことを疲れたときに思い出す程度になっていた。

まさか幼い頃の嘔吐の記憶と右足に負担を掛ける自分の癖が繋がっているとは思ってもみなかったが、顕著に影響を与えていると言われた。

つまり、霊性(左足)に頼るのではなく、顕在(右足)に頼るのが癖になっていると。

言うなれば、源(ソース)を信じるのではなく、顕在の自分を頼って生きるということを、50年以上かけて培ってきた癖が右足のふくらはぎに出ている。

もっと掘り下げていくと、前世からの影響もあるとのではないかと思う。

過去に、開けては行けないポータルを開け、多くの魂を傷つけたという話しをアクセスでもらっているし、マルデックという星での戦争で、私のスピリットの魂が深く傷つけられ、ある次元で癒されるまで安静にしていたという話しも教えてもらった。

戦って傷ついたゆえに、深い闇を持ってしまったのだと。

このように、単に今の人生だけの話しだけではなく、何回の生を経て、今、右足に影響を及ぼしているのかわからない。

でも、それだけ源(ソース)を信頼するというのは重要な学びだと理解できるし、源(ソース)を信頼しなければ自らの霊性を高めることができるはずもない。
【生きる】ということは、法則を無視することはできないし、法則に沿うということは、源(ソース)に沿うに等しい。
抗う、抵抗するということは、戦うのと同じこととなるのだから。

これらの話しは、縁さんに調整を頼まなければ知ることができなかった真実。
思いもよらなかった学びを引き寄せたと思う。
しかし、この【学び】がやってくるということは、今まで抗っていた部分を変えるチャンスがやってきたということ。

ならば、このチャンスを活かし、自らを成長させることに取り組み、自分を変えようではないか!

チャンスを与えてくれた源に感謝を忘れずに、利己的な世界から利他的な愛ある世界へ自分の世界を変えていき、成長していく自分にワクワクしたいと思う。

そんな私に、こうご期待(笑