<アルバイト:ガソリンスタンド>松江一中の近く | ☆同窓生の窓☆西一之江小&松江五中

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西一之江小&松江五中の卒業生のブログ

01スタンド>松江一中
 
☆平出健二君の紹介で
高校生のとき、
いろいろアルバイトをしましたが、
同じ会社に何度か行くパターンでした。
ガソリン・スタンドのアルバイトも、
何度かあり、
違う会社のガソリン・スタンドでも、
したことがありました・・・。
 
なぜ、
ガソリン・スタンドだったかというと、
仲のよかった友達が、
ガソリン・スタンドに勤めていて、
その紹介で始めたものでした・・・。
友達というのは平出健二君で、
中2のとき同じクラスになってから、
とても仲のいい、
友達になっていました・・・。
 
彼は、中学を出てすぐ就職し、
小松川高校の、
定時制に通っていました・・・。
中学のとき、
同じ水泳部に入りましたが、
私なんかよりも、
全然泳げるようになりましたし、
体格もよかったです。
運動だけでなく、勉強もできました。
全日制の高校に行けなかったのは、
私のほうが、
残念に思ったくらいです・・・。
 
彼が勤めていたのは、
錦糸町駅のちょっと先にあった、
『出光』のガソリン・スタンドでした。
何という会社だったか、
思い出せませんが、
四ツ目通りの西側に少し入った、
太平という所にありました。
その頃はわからなかったのですが、
私の生まれた産院、
賛育会病院のすぐ近くだったのです。
私はずっと都立・墨東病院で、
生まれたと思っていました。
ここ十年位前にやっと、
そうではなくてその近くの、
賛育会病院だとわかりました。
母子手帳をだいぶ前から見ていたのに、
なぜか思い違いをしていました。
弟は未熟児で小さく生まれましたので、
特別な病院で生まれ、
私と妹は墨東病院だと思っていたのです。
ところが、
私だけが賛育会病院でした・・・。
前年、昭和天皇両陛下が、
視察した病院ということもあり、
第一子だったので、
少し有名な病院にしたのかもしれません。
 
その太平のガソリン・スタンドが本店で、
いくつあったか覚えていませんが、
数店の支店があったと思います。
そのうちの一つが、
私の住んでいた江戸川区の、
松江にもありました。
松江第一中学
一中のほぼ隣りでした・・・。
隣りといっても、
150m以上ありましたが、
当時は間は田畑や空き地で、
何もありませんでした・・・。
本店のほうは、
正月、新年会で行ったり、
他に何度か行ったことがあります。
事務所は住居もあったのか、
普通のモルタル造りの家のようで、
ガラス戸の引き戸だったように思います。
スタンドのほうに従業員の控室とかが、
あったのかは覚えていません。
雨の日、
事務室の中から、
外を眺めていた記憶がありますが、
平出君と待ち合わせで寄ったときか、
何だったかは定かではありません。
本店では仕事はしていませんので、
それ以外だったと思います・・・。
社長さんもいたと思うのですが、
まったく記憶になく、
奥さんがいろいろ、
やっていたように思います・・・。
 
 
02スタンド>松江一中
 
☆松江一中の所の支店
最初、本店のほうで挨拶などをし、
家の近くの松江一中の所の、
支店でアルバイトを、
することになりました・・・。
たぶん、高1の夏休みからで、
その後、冬休み、春休み、夏休みの、
4回の長期休みに、
アルバイトしたと思います。
そこには、所長をはじめ、
他に男性が2人、女性が1人いました。
アルバイトの私を含めると、
5人になりました・・・。
 
ほとんど名前とかも思い出せませんが、
所長は、あまり背は高くなく、
どちらかというと、
小柄だったのかもしれません。
スポーツ刈りというか、角刈りというか、
短髪だったように思うのですが・・・?
気さくで、
統率力はあったと思います・・・。
社員の男性の一人は、
矢口さんといって、
背は高くなく、ちょっと小太りで、
がっしりした感じでした。
もう一人の男性は、
背が少し高く、素朴な感じで、
優しいオジサンという感じでした。
女性は、髪が長く、後ろに束ねていて、
お姉さんという感じでした。。。

はじめはわからなかったのですが、
名前を知り、
話をするようになって、
その女性がうちのすぐ近くに住んでいて、
知っている人の、
お姉さんだとわかりました。
私の家は、西一之江小と松江五中の、
間のブロックにあり、
斜め隣りのブロックに住んでいました。
その同じブロックには同級生の、
小杉恵一君山口明子さんの家があり、
その一番奥の家でした・・・。
 
妹さんのほうを、
なぜ知っていたかというと、
私より一学年上で、
時々見かけていたからでした。
というのも、
私より一学年上の簗瀬良夫君が、
子供会などの班長をしたり、
皆をまとめていましたが、
その良夫君が、
妹さんのことを好きだということを、
妹さんが通りがかったときに、
誰かが教えてくれたからでした。
そのとき一人ではなかったので、
もしかしたら、お姉さんとも、
いっしょだったのかもしれません。
その妹さんは『京子』さんといい、
なんと、
私の妻とまったく同じでした・・・。
当然、当時は知る由もなく、
知ったのもごく最近のことで、
それを知って驚いたものでした・・・。
 
妹さんのほうのイメージは、
良夫君が好きになるほどですから、
カワイイ感じと思っていました。
私も内心憧れるものでした・・・。
風吹ジュンさんに、
似た感じだと思っていました。
風吹ジュンさんといえば私と同い年で、
最近でも、
ウィッグなどのCMに出ていますね。
しかし、デビューは1973年で、
二十歳を過ぎていますし、
歌などで有名になったのはその翌年です。
ですから、
似ていると思ったのは、
だいぶ経ってからの、
ことだったようです・・・。
 
私はお姉さんのほうも、
魅力的に思っていました・・・。
タレントでいうと、
いしだあゆみさんに、
似ていると思っていました。
いしだあゆみさんは、
1948年生まれですが、
学年でいうと、5学年上になり、
お姉さんと同じ学年でした・・・。
いしだあゆみさんは、
12歳頃から舞台などに出て、
『ブルー・ライト・ヨコハマ』の、
1969年のヒットで有名ですね・・・。
アルバイトをしていたのも、
丁度その頃でした・・・。
いしだあゆみさんは、
若いとき整形をしているようですが、
整形後も魅力的ですけど、
私は、
ビフォーのほうが好きでした・・・。
長い髪を後ろに束ねている感じからか、
いしだあゆみさんに、
似ていると思ったのだと思います・・・。
 
中島みゆきさんにも、
似ていると思います・・・。
中島みゆきさんは私と同い年ですが、
学年では上のようです。
中島みゆきさんを知るようになったのは、
1975年のヤマハのポプコン、
第10回ポピュラーソングコンテストで、
『時代』を歌っていたのを見た頃。
並じゃない人が、
出てきたと思いました・・・。
ガソリン・スタンドのアルバイトからは、
だいぶ経っていましたし、
お姉さんが中島みゆきさんに、
似ていると思うようになったのは、
さらに、
だいぶ経ってからだったと思います。
長めの髪もそうですが、
顔立ちもどことなく、
似ているように思います。
いつしか、
いしだあゆみさんや、
中島みゆきさんが、
テレビに出ていたりすると、
お姉さんを、
思い出すようになりました。。。
 
 
 
☆打ち明け・・・
いつのアルバイトのときだったか、
忘れましたが、
家が近いということで、
朝、途中で待ち合わせをし、
いっしょに出勤するようになりました。
帰りは時間が違うので、
いっしょのことは、
ほとんどなかったと思います。
どういう道順だったかも、
はっきりしませんが、
同級生の『杉田鉄工所』の所から、
小松川変電所の脇を通って、
そのまま船堀街道に出た左側が、
ガソリン・スタンドでした・・・。
私の家からの距離で、
900m位の所ですので、
歩いても10分位の所でした・・・。
私は同い年や年下も好きでしたが、
年上の人と縁が多かったようです・・・。
特に中学から高校の辺りでは、
年上の人に憧れることも多くありました。
日を重ねていくうち、
お姉さんへの憧れは強くなり、
ある日、
ある朝、
その小松川変電所のコンクリート塀の、
ちょっとさみしい所で、
思い切ってその旨伝えました・・・。
何て言ったかは覚えていません。
直接的だったか、
ただ付き合ってほしいくらいだったか、
覚えていません・・・。
そして、
どう言われたのかも覚えていませんが、
「No」だったのはわかりました・・・。
私からみれば『年上の人』で憧れですが、
社会人で大人の彼女からすれば、
高校生の頼りない、
子供にしか思えなかったのだと思います。
付き合うような、
対象ではなかったのです・・・。
それもあってか、
たぶん、
好きな人がいるというようなことを、
言われたのではないかと思います・・・。
その後も、同じように勤め、
同じような距離で接して、
変わることはありませんでした。。。
 
そのバイト先のお姉さんの年齢や名前は、
そのうち知ったと思うのですが、
正確な年齢は忘れていました・・・。
同じ小学校と中学校でしたが、
小学生のときは私が一年生、
お姉さんは六年生で、
私は幼く、
高学年の人のことは知りませんし、
中学生のときは上の学年には、
妹さんのほうしかいませんでした。
普通、兄弟姉妹というと、
2歳違いというのが多いですが、
そうでもないようでした・・・。
4歳違いというのも多いですが、
結局そうでした・・・。
はっきりわかったのが数年前で、
ネットのほうで、
5学年上の先輩のかたと知り合い、
お姉さんと同級生だった、
ということがわかりました・・・。
しかも、
同窓会などで最近でも、
やりとりしているとのことでした!!
名前もすっかり忘れていましたが、
何十年も経ってようやく、
思い出させていただけました・・・。
 
その先輩のかたは、
お姉さんの住所や、
連絡先などを知っていますが、
個人情報にうるさくなった今日では、
教えられないということでした・・・。
お姉さんは結婚されて、
埼玉県のほうに、
住んでいるということまでは、
教えてくれました・・・。
なんと、
私の弟の妻の弟や母が住んでいる、
実家と同じ町でした。
私の両親が野田市に住んでいて、
弟は東松山市に住んでいましたが、
正月など実家で会った流れで、
弟の家まで行くということもしばしばで、
途中の弟の妻のその実家に、
寄ることもありました・・・。
16号線からちょっと入った所で、
バイトのときのお姉さんとは、
かなり大接近していたことになります。
 
縁もそこまでで、
先輩のかたが同窓会の連絡で、
お姉さんに電話したとき、
私のことを伝えてくれました・・・。
ところが、
残念ながら、
お姉さんのほうはまったく、
思い出せないということでした・・・。
何十年も昔のことで、
それっきりになってしまいましたので、
記憶に残ることは、
なかったようです・・・。
記憶にあっても、
関心の薄いことなどは、
次第に記憶から薄れていきます・・・。
私のほうは、多少でも関心や、
憧れまでありましたので、
記憶に残っていたのでしょうけど、
お姉さんのほうは、
好きな人がいたり、
高校生のような子供相手で、
関心が薄かったのだと思います・・・。
結局、
本人が承諾すれば連絡先なども、
教えてもらえるのでしょうけど、
本人が覚えていないので、
それも、
お預けとなってしまいました・・・。
せめて、
この記事を読んで、
記憶を蘇らしてくれればと思います。。。

 
 
 
☆仕事・・・
ガソリン・スタンドでの仕事は、
主に給油と窓拭きでした・・・。
オイル・チェックも勧めて、
OKがあったらチェックして、
不足分を補っていました。
 
お姉さんは事務が主体でしたが、
手が空いたときなどは、
ガソリンの給油もしていました・・・。
ガソリンを給油するときは、
レギュラー・ガソリンと、
ハイオクのどちらかを聞くか、
シールなどで判別しますが、
難しいときもあります。
最終的にはお客さんに聞きます。
ところが、
間違えて入れてしまうこともあるそうで、
皆、経験があるようでした・・・。
あるとき、
お姉さんもやってしまいました・・・。
しっかりしているようでも、
やってしまうのだなと思いました。
女性なので、
そのときはかわいそうに思いました。
レギュラーと、
ハイオクの入れ違いだったら、
燃費が悪くなるなど、
それほど大きな問題ではないのですが、
軽油を入れてしまったようでした。
特に小型車やオートバイなどは難しく、
ガソリンなのか軽油なのか、
わかりづらい場合があります。
間違って入れてしまった場合、
タンクを空にして、
正規の燃料を入れる必要があります。
オートバイなら比較的簡単にできますが、
4輪車だとちょっと面倒です・・・。
そのときは、
どんな車種だったか忘れましたが、
所長達が、
大至急で処理してくれました・・・。
お姉さんは、
疲れて考え事をしていたのか、
うっかりしてしまったようです。。。
 
お客さんがいないときは、
いつ車が入って来ても、
すぐ出られるように待機しています。
立ったままが多かったように思いますが、
座っていても外に目を向けています。
ヒマなときもありますが、
自由な時間ではありません。
他の人とムダ話くらいはしますが・・・。
そのうち慣れて、洗車をしたり、
時間のあるときは、
パンク修理を教えてもらいました。
チューブレスでも、
パンクすることを知りました・・・。
難しいパンクもあり、
一応全体をチェックしますが、
見つけにくいときもあります。
特に何ヶ所も穴があったときは、
見逃しやすいです。
修理後もチェックはするのですが、
それも見落としてしまうことがあります。
基本的には、
自転車のパンク修理と同じですが、
接着剤が着きにくい場合もあります。
最初の頃は、
見落としや、不十分な修理があり、
再修理が何度かありました・・・。
お客さんには迷惑をかけてしまい、
責任を感じることがあり、
大変だと思いました・・・。
事務所の建屋の脇のスペースで、
夏の暑い陽射しを受けながら、
パンクの修理をしていたのが、
懐かしく思い出されます。。。

 
 
 
☆オペル・・・
ふと思い出したことがあります・・・。
休憩のときだったか、
待機しているときだったか、
皆で話をしていて、
車の話になりました・・・。
あの車はいいとか、
この車が好きだとか、
そういう話だったと思います・・・。
その話にお姉さんが入ってきて、
『オペル』が好きと言っていました。
入り口近くのショーウィンドウの辺りに、
お姉さんが立っていて、
他の人はその脇のソファーに座っていて、
自分はその奥の所に立って、
外を見ながら聞いていました。
私はたぶんオペルの名前を聞くのは、
初めてだったと思います・・・。
他の人に聞いたか、
あとで調べてか、
ドイツのメーカーだと知りました。
調べるといっても、
今のようにネットで、
簡単に調べることなどできません。
本屋や図書館などで、
調べるしかありませんでした・・・。
 
お姉さんの口から、
何度か「オペル」の名前を聞きました。
そんなに気に入っているのかと、
思いました・・・。
それから、
オペルの車を気にするようになりました。
オペルの車の、
どこが気に入っているのかとか、
どういう格好をしているのかなどと、
知識を蓄えて、
いいところを見い出し、
自分も好きになろうとしました・・・。
お姉さんと話を合わせるためと、
自分に好意を持ってもらうために・・・。
それは、
アルバイトを終え、
お姉さんと会えなくなっても、
習慣的に続いていきました・・・。
以降、
オペルの車を見かけたり、
テレビや雑誌などで目にするたび、
お姉さんを思い出していました・・・。
お姉さんといえばオペル、
オペルといえばお姉さん、
そんな感じだったのです。。。
 
 
 
☆その後のお姉さん
先日、
書類等の整理をしていたら、
たまたま、
お姉さんのことを、
書いたメモが出てきました・・・。
遺跡を発掘するような感覚でした・・・。
しまってある日記風の手帳なども、
たくさんありますが、
当分、未発掘の遺跡のようなものです。
忘れていたことが、
たくさん出てくると思います・・・。
でも、まだその余裕がありません。
そうこうしているうちに、
二度と見返すことが、
できなくなるかもしれませんが・・・。
その紙には、
1971年8月6日の日付で、
「**さんがまた職を変えた」
と書いてありました・・・。
しばし仕事を変えていたようです。
「銀座 西友の裏、角。」
とも書いてありますが、
銀座に西友なんてないですし、
江戸川区にもあまりありません・・・。
都内の現在・過去の店舗を見ましたが、
それらしい所はありませんでした。
銀座は間違いないのか、
西友が間違いないのか、
どちらかが間違っていると思います。
「○○銀座」というのは、
あちこちありますが、
たぶん銀座は間違いなく、
西友というのが、
何かの聞き間違い、
だったのではないかと思います。
だとすると何と聞き違えたのでしょう。
 
1971年というと、
私が19歳のときですから、
アルバイト後も、数年は、
連絡を取っていたということになります。
今となっては、
まったく思い出せませんが・・・。
いずれにしても、
いつの間にか音信不通になり、
はるか何十年も過ぎてしまった、
ということです・・・。
遠い過去に。。。
 
 
 
☆ドラム・セット
松江一中の近くの、
ガソリン・スタンドでは、
他にいくつかの思い出があります。
冬休みにバイトしたときですが、
社員の矢口さんという人が、
ドラムをやっていて、
事務所の控室かロッカー室に、
ドラムがセッティングしてありました。
夕方、仕事を終えてから、
時々、
矢口さんがドラムを叩いていました。
私も、
石原裕次郎の『嵐を呼ぶ男』を見たり、
『GS』といっても、
ガソリン・スタンドのほうではなく、
グループサウンズなどへの憧れから、
ドラムには興味がありましたので、
何度か叩かせてもらいました。
といっても、
基本も何もありませんでしたので、
ただ叩いて、
音を出したというだけでしたが・・・。
矢口さんに教えてもらったことも、
あったかもしれません。
それでも、
まったく叩けないのと同じでした。。。
 
ドラムを間近にして次第に私は、
ドラムが欲しくなりました・・・。
どういう流れだったかは忘れましたが、
矢口さんが新しいドラム・セットを買う、
ということで、
安く譲ってくれる、
という話になりました・・・。
まだ1年位しか使ってないけど、
入門セットのようなものなので、
上級者用のものに、
買い換えるとのことでした。
当時のアルバイト代が、
日給1500円でした・・・。
今の時給位ですね・・・。
そのバイト代やお年玉などをかき集めて、
確か3万円だったと思いますが、
譲ってもらうことになりました。
高卒で就職したときの、
初任給が4万円でしたので、
今の金額に直すと、
けっこうな金額だったのですね・・・。
それでも安かったのですけど。。。
 
そこから、
私のドラム人生?が始まりました。
たまたま学校の同じクラスで、
仲のよくなった人達が、
それぞれ楽器をやっていたりして、
話が音楽関係の方向に進んでいきました。
バンドを組んで、
さっそく文化祭のクラス毎のイベントで、
演奏しようということになりました。
私は小中学校と、『オンチ』で、
楽器もダメだし、
音楽の成績も最悪でした・・・。
そんな自分が、
自己流で本やレコードで、
ドラムの練習を始めました・・・。
当時は家の間隔も多少あり、
まだのどかな時代でしたが、
閉め切って叩いてはいても、
音漏れもあったかもしれません・・・。
 
バンドの中心になったのが、
ベースの斉藤信之君で、
彼の先導のもと、
曲目はハードロックや、
ジャズの数曲になりました。
斉藤君は蒲田の出身で、
地元には有名なバンドなどもあり、
弟子バンドや兄弟バンドとして、
斉藤君も、
地元のバンドに所属していました。
彼の周囲には、プロやセミプロの、
ミュージシャンが多くいたようです。
私の知っているのは、
ザ・カーナビーツ』や、
ゴールデンカップス』などにいた、
ドラムス&ボーカルのアイ高野さんで、
斉藤君のバンドの人がスティックを、
もらったと聞いたことがありました。
『好きさ好きさ好きさ』
などが懐かしいですね・・・。
当時、江戸川区でも、
河川敷でバンド練習する姿が、
あちこちで見受けられましたが、
蒲田のほうでも、
多摩川の河川敷が練習場でした。
私も何度か行ったことがありましたが、
リヤカーに楽器などを載せ、
けっこうな道のりを運搬していました。
 
文化祭のイベントは、
想像以上のできばえになり、
私の初めての舞台としては上々でした。
ところが、
それは私にとってはピークで、
一番最初に、
ピークが来てしまいました・・・。
最初で最後という感じです・・・。
その後も何度かステージはありましたが、
それなりではありましたが、
トータル的な面では、
文化祭のパフォーマンスを超えることは、
ありませんでした。。。
ドラムは、
一人ではできませんし、
音を出せる場所が限られています。
昨今のような電子ドラムなら別ですが、
昔はありませんでした・・・。
で、結局、他の楽器のギターや、
コンピューター・ミュージックなどに、
シフトしてきました。。。
でも、
当時のドラム・セットは、
物置の片隅に安置してあります・・・。
一時、スネアとシンバルだけ、
出していたこともありましたが・・・。
昔の『なごり』です。。。
 
 
 
☆スクーター
スタンドの建物の裏には、
スクーターだったか、
50ccのバイクが置いてありました。
『カブ』と呼ばれる、
スクーターでしたか・・・。
調べてみると、
ホンダ・スーパーカブ70』のようで、
72ccあったようです・・・。
もしかして、
原付免許が50ccまでだったのが、
125ccまでに、
なっていたのかもしれません。
軽トラックも別の所にありましたが、
何に使っていたのか、
灯油などのちょっとした配達用か、
バイクもありました。
矢口さん達が、
時々、休み時間などに動かしていました。
私も年頃でしたから、
バイクにも興味がありました。
で、
乗ってみるかということになり、
操作を教わって十メートル位の所を、
行ったり来たりしました・・・。
自転車に乗れれば、大したことないと、
聞いたことがありました。
フツウに走る分には、
そうかもしれませんが、
Uターンとか、
細かく折り返すときなどは、
ちょっと操作に慣れるまで、
難しく感じました・・・。
スタンドの敷地内だけでしたら、
無免許でもよかったのですが、
裏の道にも出て練習していましたので、
無免許違反だったのかもしれません。
人通りのない、田舎の道のようでも、
いけなかったのかもしれません。
それがオートバイを運転する、
「初めて」でしたが、
その後成人して、
普通自動車の免許を取り、
50ccまでの原付免許もついていて、
別の機会で何度か、
バイクを運転することもありましたが、
結局、
買って乗るまではいきませんでした。
ウチには、父の乗っていた、
スクーターもありましたが、
それも数度乗ったきりでした・・・。
高校生ぐらいから、
誰しもバイクに乗りたいと思いますし、
私もそう思っていましたが、
私の後輩であり、弟の友人が、
何人かバイク事故で亡くなっていて、
倒れたらオシマイということで、
四輪車のほうに、
気持ちが移っていました・・・。
そんなこんなで初めて乗ったバイクで、
懐かしい思い出でした。。。
 
 
 
☆東海村・・・
最初のアルバイトのときには、
いなかったと思うのですが、
村山君という社員さんもいました・・・。
彼も中学しか出ていなく、
私よりも一つ年下でした・・・。
当時はまだ、
中卒もずいぶんいた時代でした・・・。
車の免許も、
軽は16歳から取れました・・・。
ほぼ同い年でしたので、
すぐに仲よくなりました・・・。
出身は茨城県の東海村
そう原子力発電所のある東海村でした。
 
あるとき、
東海村に行ったことがありました。
村山君も久しぶりに帰ったようで、
彼の仲のいい仲間も集まりました。
私もいっしょに、
そのうちの一人の家に行き、
皆に紹介してもらいました。
軽トラックの荷台に乗って、
仲間の家を移動した記憶があります。
女の子も何人かいて、
一人は村山君の彼女のようでした・・・。
まだ昼過ぎぐらいだったでしょうか、
村山君がその彼女に、
私を東海村の案内で、
連れて行ってくれるようにと、
言いました・・・。
言われるまま、二人で歩いて、
出かけることになりました・・・。
海岸に出て砂浜を歩いて、
原子力発電所の脇を通り、
ぐるっと一回りして戻りました・・・。
 
彼女の名前は郡司マリ子さんといい、
村山君と同じ一つ年下でした。
何月生まれとかという話になり、
なんと同じ7月7日の、
七夕生まれだとわかり驚きました。
母以外に初めて、
同じ誕生日の人に出会いました。
彼女は、
タクシー会社の娘さんでした。
東海タクシー』とかいう、
駅前と少し離れた所に、
営業所とか車庫がありました。
何年前だったか忘れましたが、
グーグルマップで、
見つけたことがありました。
が、今は見当たらないようです・・・。
どうなったのかはわかりません・・・。
お互い連絡先の交換をしましたが、
今のようにケイタイもない時代ですので、
家デンと住所ぐらいでした・・・。
当時はまだ『文通』というのがあり、
とりあえず文通を始めました。
しかし、私は、
村山君の彼女だと思っていましたので、
深入りすることはできませんでした。
初めての『織姫』候補でしたのに、
やがて疎遠になり、
会うこともなくなっていました・・・。
もうお互い、ジイさん、バアさん・・・。
織姫・彦星どころではありません。
村山君もどうしているのでしょう。。。
 
 
 
 
 
******************************
何度かの長期休みに、
アルバイトをしたガソリン・スタンドで、
忘れてしまったことも多いですが、
懐かしいことも、
いっぱいありました・・・。
場末ではありましたが、
年頃の自分には、
いろいろな刺激があったと思います。
まさに、
戻らない青春の1ページでした。。。
 
 
 
 
 
    v(^^)v
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
☆☆☆<ご連絡ください>☆☆☆

↑松浦稔(1952年7月7日生)↑
 
<☆ご連絡ください☆>
関係のあるかたや、
何かご存知のかたご連絡ください♪
 
特に同じ学年のかたなら、
とても嬉しいですが、
学年・年齢は違っても、
同じ学校、
西一之江小、
松江5中 に関係のあるかた、
是非、ご連絡ください♪

 
同窓生でなくても、
記事に関係することを知っているかた等、
お気軽にご連絡ください♪
 
記事にコメントを入れていただくか、
メールやメッセージ等をいただければと思います。
※コメントは承認制ですので、
 承認しなければ表示されません。
是非、よろしくお願いします。
   v(^^)v