当たり屋。
つくづく、モラハラと話している気分になり
この手の一貫性のない主張、法やら保険の意味すら理解しない、ただただゴネる。
本件と関係ないところにまで話が波及する。
これ、正気の沙汰ではない。
相手は「自分が正しい!」と本気で思って思っている。微塵もここまでやったらヤバいんだろうな…的な気持ちがない。
こちらとしても
どちらが正しいかなんてどうでもよく、
根拠ありき。なわけで
赤本通りの結果しか出せない。
「怖かった」「自信が無くなった」とかもう、感情論は一切、通用しない。
逆に、交通事故でメンタルに支障おこしても保険の対象にならないというのがキビシい、この世界。
トラウマになろうがPTSDになろうが、
身体に負った傷以外は保証されない。
なので、感情論ありきになりがちな交通事故は、非常に疲れる。
自転車の取り締まりが強化され、自転車は弱者だー!がようやく適切な判断になり始めて厳罰化されているわけだが、地裁は最新の判例に対しレベルが低い。
前例ありき。
いくら淡々と対処しても、
モラモラモラモラ来ると、相手にするのもうんざり。
自分が言ったことは全て忘れる。
書面に残しても踏み倒す。
これが二児の親のやることなわけ。
世も末だなと。
これね、いつも感じるんです。
旭川の中学生が凍死した件や、
幼稚園児バス置き去り事件、
挙げたらキリがないですが、
加害者側の「開き直り」「二転三転する」「約束を反古にする」
これを被害者の会を結束して争っても
被害者感情はさらに刺激される現実。
横田めぐみさんの拉致事件もそうですが、
ただただ、娘さんの帰りを待つだけの半生。
こんなことが許されるのかと。
許されないです。が、現状、加害者側のやりたい放題に振り回される。
その後の人生、亡くした子どもを帰してくれ!といくら叫んでも知らぬ存ぜぬ。
当事者ではない人はただのニュースとして聞き流すか、自分になにか出来ないかと支援を申し出たり様々反応あるわけですが
当事者にしかわからない苦痛、苦悩が終わらない。
一方が真摯に対応するだけで救われる部分があるのに、それすら要求できない。
理不尽の一言に尽きる。
言ったもん勝ち、ごねたもん勝ち。
巡り巡って跳ね返ってくるなんて、実際あるのか。
義姉、カモネギ、毒伯母夫婦、
義母も尻まくって逃げ、いまだ謝罪もなく。
義母は私は許すことは生涯ないです。
ただ、死んだら常識の範囲内で処理します。
毒伯母夫婦のやり方を決行してもいいくらいの恨みはある。だが、自分のプライドがそれを許さない。それだけの理由です。
いじめと同じでやった方はケロリと忘れ、
やられた方は傷として残る。
そんなのばかりの現実。
こちらが法をモラルを遵守しても
相手が爆走するなら止める力がない。
なんなんですかね。
私ね、hspだ!と声だかに叫ぶ人は苦手です。あれは心理学的にも医学的にも正式に認可されてません。
hspで、こういう特性だから周りが配慮してください!も違う。
ただ、うつ病になるほど自問自答したり、その一歩手前で踏ん張っている方は
人間味があって私は好きなんです。
もちろん、心の守り方を知り、1つのことに捕らわれないスキル、認知を変えることも大切ですが、
人間、繊細であるが故に、葛藤する。
周りの目を意識して疲れる日もある。
それは大事なことだと思う。
なんら恥じることはなく、むしろ人間の本能が機能しているとすら感じるわ。
そこに生育歴だ、過去のトラウマだと複雑に絡み合ってさらに難化するのもわかる。
「こころに響くサプリ」「生きづらさからの解放」なんて、本を山ほど読んだが
あ、そう。としか思えない。
当たり屋のように我こそが正義!人からどう思われようが気にしない!ごね得!
そんなクズがいるのも事実。
どうしたらこんなヤツが生まれるのかが最大の謎なんだが。
最強だよね。
クズはクズの血をひいていて、似たもの同士が集まるからさらに力をつけるのですけど。
バーカ。(低次元)