悪を殺される恐れ | 松ちゃんのアイデアのブログ 

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いろんな洞察や気付き、発想や考え方などを紹介しています。考え方の載ったカタログ的なものになればと思い、多くの考え方などを紹介していければと思います。それを生きるかどうかは自分で決めてみてください。

こんにちは。


今回のテーマは悪を殺される恐れです。


少しヘビーな内容になるかも知れませんので、


自己責任で、それでも読みたいと思われるだけにしてもらえればと思います。


俗に言う悪と言うものがあります。


悪は禁じられたり、評価を落とされたり、忌み嫌われたり、罰せられたり、それはしてはいけない事とされている場合があるかと思います。


悪を経験したり、選択したことのない方は素晴らしいと思います。


けれども誰もがいつも間違いのない純粋な善だけを選択できるかとなると個人的には難しいのかななんて思ってしまう次第です。


もちろん悪は良くないし、やってはいけないと言う意見に自分も賛成ですし、それを目指していこうと言う気持ちに変わりはありません。


でもどうしても結果的であれ、悪を選択したり、悪に関わったり、導かれてしまう事があるのかなと感じる事があります。


そこで人は今後その出来事を教訓に、今後は悪を働かないように、反省したり、心を入れ替えたりするのではないかと思います。


時にはその為に悪を罰したり、排除したり、拒絶や禁止、追放、拘束、抹殺や消滅までしょうとする場合もあると思います。


これらの行為をあえて悪を殺すと今回は表現してみたのですが、


実は、人の心の奥深くに、悪を殺される恐れと言うものがあるように思うのです。


それは自分の過去にしてきた悪や元々備わっているちょっとした悪とされる性質や性格なのかも知れませんし、


または、その人の中でそれは悪だと分類している行動や概念、考え方かも知れません。


その悪を殺される事に怯えたり、その悪を責められる事や裁かれる事を人は恐れているのではないかと思うのです。


何故そのような事が起きるのでしょう。


一つはどれだけ反省したとしても、過去の悪事の事実そのものが消えるわけではない事、過去を書き換えれない事、


それから悪にもレベルや純度があって、ほんのわずかな悪や、気にしなければ普段は気付きもしないような悪などもあるからではないかと思うのです。


具体的には


陰口を言わない。


人を見下さない。


差別意識を持たない。


人に迷惑をかけない。


他人を許し、寛大でいる。


お年寄りに席を譲る。


嘘を付かない。


ズルをしない。


インチキをしない。


卑怯な事を考えない。


騙さない。


盗まない。


偽らない。


とまああげればキリがない、決して善行と言うジャンルには指定されてない日頃の何気ない行動と言うのは多々あるように思うのです。


どこかで保身に走ったり、嫌な事から逃げようとする心理が働いたり、口と行動が違ったり、口先だけで未熟だったり、


それらの些細な悪を無意識に、批判、裁き、攻撃、究極的には殺される事を恐れている部分があるように感じるのです。


何故人は悪と呼ばれるものまでも殺される事を恐れているのでしょうか。


それは人は本当は悪すらも愛しているからではないかと思うのです。


頭ではなく、心の深き深い部分では、悪すら人は愛しているのではないかと思うのです。


愛しているからこそ、それを殺される事を恐れているのではないのか。


それがいくら間違った行動や選択であったとしても、自分の選んだ選択であり、自分の生きてきた人生でもあるのです。


頭ではもちろん否定していても、心の深くではそれを愛している部分があるのかも知れないと今回思いました。


もし人と言う表現が受け入れられないなら、神は悪すら愛していると表現するしてみると分かりやすいかも知れません。


人間の心の深くは結局はハイヤーセルフや神と言う存在に繋がっているようにも感じるからです。


よくスピリチュアルなどで悪を排除するのではなく、抱き参らせると言う表現が使われていたりすると思います。


これは少し過激な表現になってしまうのかも知れませんが、


悪はいくら減らしても良いけれども、決してなくしてはいけないものなのではないかと私は思っています。


何故そのような事を言うのかと言うと、


どんなにそれを排除しても、どんなにそれを抹殺しても、悪は決してなくならない、ゼロにはならないからだと私は思います。


よくアリの群れなどを見ると必ずサボっている存在がいて、それを排除すればみんな働き者になるのに、


怠けているものを排除すると、今度は別の存在が怠けるようになる現象を聞いた事があるでしょうか。


他には頭の良いと言う評価の元に育った子供が、進学して、頭の良い人たちばかりを集めると、


その頭のいい人たちの中で一番頭の悪い人が出来てしまう現象などにも現れていると思うのですが、



比較する事で成立している悪をいくら排除しても、


残された善人の中で一番悪を作り出してしまうからだと思います。


金太郎飴のように切っても切っても悪はなくならない、ゼロにはならないと思います。



例え善人だけそろえたとしても、善にも純度や態度があり、善の中で比較する事で、結果、これまでは善と呼ばれた行動ですら、悪にされてしまうと思うのです。



悪は減らしてもいいけど、決してなくしてはいけないものだと思います。



何故人は悪を殺される事を恐れるのか。


そこにあるのはもしかしたら生存本能なのかなとも思います。


生きようとする心や思いが、悪を殺される恐れになっているのかなと思います。



生存本能とは、例えどんな手段を使ったとしてもとにかく生き延びようとする心や本能ではないかと思います。


よくテレビなど犯罪者がお巡りさんから血眼になってた逃げ惑う姿を見る事がありますが、


あれも一つの生存本能ではないかと思います。


いざとなった時に、どんな手段を使ったとしてもとにかく生き延びようとすると、野生動物のような本能ではないかと思うのです。


悪事や悪い心を殺されるる恐れから、逃げようとする心を奪われないように、卑怯な心を殺される事を恐れて逃げ惑っているのだと思います。


人は自分の悪を殺される事を恐れていると思います。


自分の悪が殺されるのが怖いのです。



そのためには悪を殺すのではなく、減らし、それすらも自分が愛している事を認めて、自分の中に悪も善もどちらも経験してきた事実を受け入れて、


殺される恐れを手放してみてはどうかと思います。


自分を善と思っている人は、本当に善なのではなく、善というレッテルを自分に貼りたいだけなのだと思います。


実際には善も悪も関係なく、自分を生きてからだけなのだと思います。


善だけを選び続けて生きるほど、人は意識的には生きれてないと思うからです。


それでも人は生きようとします。


それが最初に設定されているプログラムなのかも知れません。


生きる事


人はそれを愛と呼ぶのかも知れませんね。


悪が殺される恐れでした。


ありがとうございます。