他者の正しさへの自信を取り戻す | 松ちゃんのアイデアのブログ 

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いろんな洞察や気付き、発想や考え方などを紹介しています。考え方の載ったカタログ的なものになればと思い、多くの考え方などを紹介していければと思います。それを生きるかどうかは自分で決めてみてください。

こんにちは。


今日のテーマは他者の正しさへの自信を取り戻すです。


他人と正しさを争ったり、正しさで勝負をした事がある人がおちいりやすい状態に、


自分が正しく、相手が間違えている


と言う決心や結論を持ってしまっていると言う事ではないかと思います。


自分正しいと思いたいが為に、他人が間違えていると決めてしまった状態、つまり、その状態と言うのは、他人の正しさに対する自信を失っている状態とも言えると思います。


正しさは人それぞれ違うはずなのに、


自分が正しいので結果的に、他人が間違えていると決めてしまっている。


他人が正しいと言う自信が持てない。


社会の正しさへの自信が持てない。


他人の選択への自信が持てない。


他人の生き方への自信が持てない。


他人の考え方への自信が持てない。


他人の判断への自信が持てない。


そんなところでしょうか。


自分が正しいと思いたい。その為に相手が間違えている必要がある。


正しいのは一人だけ。


正しさの独占。


他人の間違いが自分の正しさの根拠にしたい。


自分とは違うので相手を間違いだと決めたい。


人は自分の正しさに自信をなくしている人だけでなく、他人の正しさへの自信をなくしている場合があると思います。


なぜ自分の正しさと他人の正しさは違うのか。


人は最終的に同じ場所に辿り着くとしたとしても、


その途中は違うのだと思います。


どのルートを通るのか、いつそこを通過するのか、

どんなやり方で通るのか、どのテーマで通るのか、


どの順番で通るのか、何を使って通るのか、どんな立場で通るのか、その選択は無限にあると思います。


ある人は山を登るのに、後ろ向きに登る人もいるし、車を使って登る人もいる。


集団で登る人もいれば、休み休み何年もかけて登る人もいる。


肩車をして登る人もいれば、うさぎ跳びの人もいる。


ペースも違えば、頻度も違う。


寄り道も違うし、服装も違う。


基準も価値感も違う。


何を学びながら登るのか、何を決めながら登るのかも違う。


テーマか違えば、地球で果たす役割も違う。


地球でどこに足場を作って登って行くのか、


仮の足場をどこに置くかが違う。


経験も違えば、結論も違う。


選択も方法も違うし、意見も生き方も違う。


使命も違えば、景色も違う。


俳優も違えば、登場人物も違う。


持ち物も違えば、道具も違う。


何を正しいとするかも違うし、


誰と出会うかも違う。


それは本人が自由に決めて良い。


間違いから学んでも良いし、正しさから学んでも良い。


自分で決めて、試してみていい。


選んで良いし、仮説を立てていい。


通過点は違っていいし、ルートも違って良い。


時期も違って良いし、ジャンルも違って良い。


手段も、違っていいし、同意者はいてもいなくても良い。


どんな経験にするのか決めて良いし、


どんなやり方で辿り着くか決めて良い。


この星で生きる時間は魂から言わせるとほんのわずかな時間だと思います。


地球でゴールする必要もなく、地球で目的を果たす必要もなく、


今世で、目的達成する人ばかりでもなく、


ゴールはどの転生で、いつしても良いのだと思います。


地球で出す答えが違っても良い。



間違えた選択をする人は、


間違わないと辿り着けない境地があったり、


間違う事で、学べる事があったり、


間違いの先に行きたかったり、


魂からしてみれば、間違う事がある種の正しさにも繋がってもいるので、


その選択への自信を持って良いと思うのです。


他人の人生や選択は本人が決める事であり、他人が決める事ではないし、


本人が決める事で初めて意味が出てくると思います。


他人が自分と同じルートを通らなくてはいけない訳ではないし、


自分の知らないやり方で登る人がいても良いのです。


分からず屋でいる事でどんな事が学べるのかを経験して良いのです。


他人の旅への自信を取り戻し、


他人の判断への自信を取り戻し、


他人の心がけや決心への自信を取り戻しても良いのではと思います。


人は登って行く為には、正しかろうが間違っていようが、とりあえずは仮説を立てる必要があるように思います。


その仮説を自分で生きてみて、軌道修正をして行く。


その軌道修正に、意味があり、とりあえずの足場を、まずは、自分で選ばなければ始まらない。


行きつ、戻りつを繰り返して学ぶのではないかと思います。


なので、他人の学びを取り上げるのではなく、


試行錯誤のチャンスを与える事も大切だと思うのです。


間違いながら登る自由があると思います。


間違いを含めた学びにつながると思うからです。


人生は間違いも含んでいるので、ある種間違うことすら正しいと言えるドラマなのではないでしょうか。


つまり間違いから恩恵を得る生き方と言う事が言えると思います。


必ずしも地球で結論を出す必要もなく、


地球で出した結論が同じである必要もなく、


結論のための一つの経験として、間違いを経験する人生を選ぶ人もいると思うのです。


つまり、人生には正しさの試着が必要だと思うのです。



それから

なぜ昔は正しさに共通点があっはずなのに、


最近は正しい事が違ってくるようになったのか。


一つはそれだけ多様性が認められるようになってきた事があると思います。


そしてもう一つはこれまでは正しさを他人が決めないと収まりがつかなかったものが、


人類の意識が成長してきたので、


個人で正しさを決めるレベルまで進化してきた事が挙げれると思います。


幼稚園では誰か代表が正しさを決めて来たのが、


人が成長する事で、一人一人が法律を決めれる。



何が正しいのかを個人で決めれるレベルにまで、


人類の意識が発展して来たので、


個人に正しさの決定権が与えられるようになってくるまで、


宇宙から信用されるようになって来たからではないかと思うのです。


正しさを個人に委ねてもそろそろ大丈夫なレベルにまで人類が成長して来た事を意味しているように思うのです。


国が違えば正しさは違うように、個人が違えば、正しさが違っても良い時代になって来たのではないかと思うのです。


時代はスマホと言う個人のテレビ局やラジオ局が持てたり、


個人で銀行業務が出来たり、


メールなどによる個人で郵便物の受け渡しが出来らようになったり、


個人に与えられる自由が増えて来たように思います。



それから正しさはみんな違うかららと言って、正しさを全く考えないのも危険なのではないかと個人的には思います。



楽しいものを選ぶのも正しい中で楽しさを選ぶのなら良いかと、


快楽主義とは違う気もするのです。


正しさとは自分を正す。


つまり、本来の自分に帰る事であり、



何かになるのではなく、


自分の素に帰る。


元々ある純粋さに帰る。


部屋を片付けるように、本来ある場所に自分の気持ちを戻す。


初心に立ち帰る。


本質に戻る。


つまりそれが心を正すと言う事であり、


正しい気と書いて、正気と読みますが、


正気に帰る事ではないかと思っています。


人には個性があるように、人それぞれ正気は違って良いけど、


自分の心に正直になる事も心を正す事になるのではないかと思うのです。


もちろんそうしたいと思うのならで良いとは思います。


心を正すとは心の掃除や片付けのように、余分なものを手放した、それをするとすがすがしくなるようなものだと思っています。



ありがとうございました。