純粋な疑い | 松ちゃんのアイデアのブログ 

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いろんな洞察や気付き、発想や考え方などを紹介しています。考え方の載ったカタログ的なものになればと思い、多くの考え方などを紹介していければと思います。それを生きるかどうかは自分で決めてみてください。

こんにちは。


今日のテーマは純粋な疑いです。


人は生きている限り、何かを信じている生き物だと思います。


それが良い事であれ、悪い事であれ、信じている世界や、信じている価値観を持っているのが人間であり、


人は多かれ少なかれ、何かを信じる事で現実を作り出している生き物だと思うのです。


そして人が成長する上で大事になってくることに疑いと言うものもあるのではないかと思うのです。



過激な指導者は全てを疑え!などと言われる方もいると思います。



信じると言う事は、その信じた現実を作り出すとても同時に、その現象をいつまでも作り出してしまうと言う性質があるように思います。


人が成長するには、それまで作り出していた世界から離れて、新しい世界や現実を作り出す信念を作り出す必要があるのではないかと思うのですが、


そのためには現状を疑うと言う事がとても有効で効果的な作業になってくると私も思うのです。


ただ疑うと言う言葉は一般的にには、ネガティヴなものに捉えられがちな場合があるように、



信じている世界を壊す力や、破壊する力というものも含まれているように感じるのです。


信じも疑がうも、共に何かを信じる力を使った行為であり、


良い事やポジティブな結果を信じる事を「信じる」と言い、悪い事やネガティヴな結果を信じる事を「疑う」と言う事で、どちらも信念を持ち、何かを信じる力使っており、


信じる事も疑う事もどちらもある種の創作活動になるのではないかと思うのです。


だから本当の事を伝えようとしても、相手の疑う心が強い時には、相手には響かない、伝わらないと言う現象も起きて来るし、


人から信じてもらえない、人から疑われる事で、本来の自分の力を発揮できなかったり、


信念が疑念によって壊されてしまったり、疑われる事を不快に感じたり、力を奪われたように感じたりする場合も出てくるのだと思います。


それでもやはり、進化成長する為には、この疑うと言う力がとても効果的になるとも感じてもいます。



そこで大切なのが、疑いが、純粋な疑いか、それとも悪意のある疑いなのかと言う事ではないかと思うのです。


悪意を持った疑いや、不信感や警戒心から生じる疑いからではなく、


純粋で下心や含み心のない、素直な疑いだと思います。



疑い過ぎると、疑いは、もう「怪しむ」と言う状態になってしまい、


現実を客観的にみる事が出来なくなってくるのではないかと思うのです。


過剰な疑いはむしろ害悪になり、事実を探求するためのものではなく、事実を破壊する事に働き、


逆に現実を分からなくさせてしまうのではないかと思うのです。


そうではなく、純粋な疑いこそが、求められていて、


純粋な疑いと言うのは、「疑問」と言う形で生じてくるように感じるのです。



物事が起きた時に、何で?どうして?何故そうなるのかな?


そのように疑いが純粋な、疑問として浮かんでくるのではないかと思うのです。


その疑問が純粋なら、より理解をもたらし、また新たな可能性を作り出し、成長につながる事が出来ると思います。



過ぎたるは及ばざるが如し



疑い過ぎず、信じ過ぎない事で、バランスの取れた視点が持てるのかなと思います。



世の中は時に信仰や宗教を嫌う人もいると思います。


政治の世界に宗教を持ち込まないようにするルールがあったり、宗教をよく思わないように操る世論もあると思います。



でも本当は信仰を持たない人はいないのではないかとも思うのです。



現実主義にしろ、宗教反対者にしろ、それはやはりある種の信仰なのだと思うからです。


誰もが何かを信じているのです。



人と同じ事を信仰しなくてはいけないわけではなく、


人それぞれ信仰は違っても良く、


自分なりの信仰を大切に持ち続ける気持ちも大切だと思います。


敗戦で最もGHQが恐れたのか、信仰であり、支配者が最も手放させたいのが信仰であり、


信仰を破壊する事で、日本人の心を弱体化させようと言う政策が取られてきた世界なのだと思います。


信仰とは信じる人たちが一つになって力を合わせて自信を持つ事だと思います。



彼らは信じる人たちが力を合わせて一つになる事を恐れているのかも知れません。



信仰をしっかりと持って生きる許可を出しておく事が求められてくるのではないかと思います。


信仰を持ちながらも、信仰を進化させる、成長させる事がポイントで、


お互いの信仰の違いを尊重しながら、共存する事が求められているように感じます。


信仰のない人はいません。


誰もが何かを信じて生きているのです。


お金であれ、価値観、生き方、未来であれ、


何かを信仰しているのです。


信仰破壊の世界で、信じる力を一つに合わせられたくない世界で、信仰を持つことの素晴らしさをなくさない


信じる事を大切にする気持ちを持ち続けて欲しいと思います。


自分の信仰は自分で決めていく事で、


他人の信仰も尊重出来れば素晴らしいなと思います。


信仰破壊政策の世界で、あえて信仰を大切に生きていく事に、意味があるのかも知れませんね。


信仰を大切にしながら、疑いで進化させる。


そんな心掛けを持ってみると面白いかも知れません。


信じる力を合わせて自信を持って生きてみて欲しいと思います。


ありがとうございました。