肌が弱い私は、冬になるといつも、手指にたくさんのあかぎれをつくった。

 小学校のころは、掃除の時間にぞうきんを洗うのが本当につらかった。

 

 絞るときに力を入れると、傷が開く。水がひとつひとつの傷に沁みるだけじゃなく、

 バケツの中の汚れた水から、傷口にばい菌が入らないか心配にもなった。

 小さな糸くずやごみが傷口に入ったときは悲惨だった。

 でも、掃除の時間に手袋をつけるわけにも、箒で床ばかり掃いているわけにも、いかなかった。

 

 その日も小さな決心をして、黒く濁った水に浮かぶぞうきんをつまみあげるところだった。

 そのとき、いきなり右手をつかまれた。あたたかい手だった。

 仲良く話したこともない子だったけれど、私の右手を両手ではさんだまま

 手の甲を少しなでて、「かわいそうに」とつぶやいた。

 すぐに私のぞうきんを代わりに絞って、渡してくれた。




 中学校にあがって、その子が学年中から非難を浴びたことがあった。

 生徒会の委員なのに帰り道にジュースを買い飲みした、ということだった。

 別のクラスだったけれど、廊下の真ん中にある階段を超えて、その話は伝わった。

 とっさに、小学校でのことが思い浮かんだ。あの子の優しい手。

 「たいしたことないじゃない」その一言が言えなかった。

 そう、あの優しさをもっているんだもの、ジュースの買い飲みなんて、たいしたことじゃない。


 それなのに、救われたのに、救うことができなかった。

 

 ありがとう、ごめんね、と今でも思う。




車で音楽を聴かないほうがいい、と気づいたのは2年ほど前のこと。

聴いている音楽のかおをしてしまうから。

切ない曲を聴いているときは今にも泣き出しそうになってしまうし、

アップテンポの曲のときは自然と口角があがってリズムまでとってしまう。

部屋で音楽を聴きながら片付けや料理はできるけど、

イヤフォンはどうもだめ。音楽が脳に直接入ってくるみたいで無視できない。


周りのひとを見てみると、みんなそうっていうわけじゃないようで。

英会話の講座でも聴いてるのかと思うくらい無表情だったり、

イヤフォンをつけながら本を読んでいたり。これは一種の芸当だと思う。


聴いている音楽のかお。


自分のそれに気がついてから、ちょっと恥ずかしくなって、

電車の中では本を読むようにしている。

そしてこっそり、音楽のかおをしている人を探している。





椅子を押す機会があった。

白いスーツに同じ色のハットをかぶり、ベルトには「D&G]のバックル。

背はすらっと高く、日本人離れした顔には若かりしころの美しさを未だわずかにとどめている。


肺がんの70代男性、という情報だけであらかじめその人となりを想像するのは間違っているのだ。


そばには女性がいた。まっすぐな黒い髪は肩のあたりでそろえられ、それと同じくらいまっすぐな瞳。

二人が左手の薬指に同じ指輪をしていなければ、間違いなく娘として見ただろう。


若妻は看護婦なのだという。

夫の病状について、私に同情や、詮索をされない程度に、時に微笑みも交えて話した。

彼は言うことを聞かないんです、と。


駐車場に停めてあった白いベンツに乗り込みながら、

彼は「ジュースでも飲んで」とシャネルのロゴが入った白い封筒を私に手渡した。

そして二人は辞退する暇も、礼を言う暇も与えず、私の前から走り去った。


そのときはじめて、その封筒はつい2分ほど前に妻が用意し、夫に渡したものだったと気がついた。

私は、二人が歩きながら、お互い目もあわせず何か白いものを渡し、受け取るのを見ていたのだった。


彼がどんな人生を送ってきたのかはわからない。

がむしゃらに働き、のし上がって財産を築き、病に倒れたのか、

それとも今の姿を見ていい気味だと罵る人間が大勢いるのか。

そして二人が何年も連れ添ってきた夫婦なのか、

看護婦が金持ちの肺がんの老人と遺産目当てで結婚したのか。

それも私にはわからない。


でもあの15分間を形容するなら、

二人は完璧だった。余裕があった。


スマートだ、と思った。