私が子供の頃 斉藤塾という私塾に入っていた。

斉藤先生。

学校で教えてくれない事を沢山おしえてくれました。

教科書ではなく、どこかのテキストでもなく、斉藤先生手作りのプリントで僕達は勉強をした。

分数の割り算もチャンと林檎を買ってきて、実際に切って目で見せて、説明してくれた。

林檎を食べながら算数を勉強した。


夏休みにはキャンプに連れて行ってくれた。

キャンプに行く前には料理の仕方、テントの張り方、天気図の見方、野草の種類、地図の読み方、コンパスの見かた、キャンプの予定づくり、先輩後輩のこと、色々と学んでから、現地で鉈で切り拓き、トイレを掘って、自分達のキャンプ場を作った。


冬には凧を作った。たたみ3畳のデカイ凧を作って、皆でロープを引っ張って上げた。感動した。


斉藤先生の教室には沢山の本があって、誰でも無料で借りられた。


大らかで怒ったところを見たことがなかった。

それでも、誰もが斉藤先生が大好きで、先生の言葉をみんな子供ながら真剣に聞いた。


35年も前に水素自動車や環境問題を小学生の僕らに教えてくれた斉藤先生。


最後は病院のベットで亡くなられた。

その最後まで子供達をベットの回りに呼んで勉強を教えていたそうだ。


斉藤先生、天国で、こんな私を今も生徒と思ってくれているだろうか。。


僕は子供達にそんな合気道を教えられるかな。


今日は一日中、飯を食わずに動いて腹が減った。

という理由で幹部稽古指導をサボった。


という事もあったが、私がいないでも幹部稽古は出来るものであり、私がいない中で一体どのような幹部稽古が出来るのかも知りたかった。

つまり、いつも教えている側の幹部が幹部稽古だと教えてもらえるという楽しみ変わり、

結局受身の稽古になる事もある。


むしろ、幹部同士が互いに工夫して稽古する事によって、お互いの意識も高まるのではないだろうかとも考えた。


道場の稽古は先生がいて、それを習うという立場で稽古する限り、絶対にといって良いほど伸びない。

武道とは自分で工夫して工夫して、それでも尚且つ工夫して、ある時、先生や自分より格上の人を見て、教えてもらうのではなく、盗むものである。


もし、私が教えることが出来るとしたら、それは盗み方かもしれない。

武道の稽古などは半年もすれば、一通りの形などは覚えて当たり前である。

それでも覚えられないというのは、単純に稽古不足であり、それ自体が受身の稽古のなのである。


形を工夫して自分のものにするのはあくまでも、自分である。

工夫とは観る、感じる力の上に成り立っている。

そして、本気で師とする人に問いかけることである。

師を引き出すことである。


無理にでも師の後ろを付いて回り、得ることである。

必死に引き出して自分のものにすることである。


用意された場、時間で学ぶ事は本来できないのだ。

奪う事である。


これは武道に限らず、あらゆる道と言う名が付くものは、そのようにして得るのある。

道は全て、自分が描くものであるからだ。

合気新道は合気道そのものであり、また自由に新たな発想を加え、進化し続ける合気道ともいえます。

進化とは技術が高度になったとか、コスチュームが変わったとかではなく、

その時代のニーズに合った稽古方法を選択し続けるということであります。

例えば、準備体操にはヨガを取り入れたり、

稽古の中で音楽を取り入れたり、

様々な試みをいたしております。

ただ大切な事は、合気道の開祖の志と理念を探求し、実践しつづけることだけは一歩も外しては

合気新道にならないのであります。