今日は一日中、飯を食わずに動いて腹が減った。

という理由で幹部稽古指導をサボった。


という事もあったが、私がいないでも幹部稽古は出来るものであり、私がいない中で一体どのような幹部稽古が出来るのかも知りたかった。

つまり、いつも教えている側の幹部が幹部稽古だと教えてもらえるという楽しみ変わり、

結局受身の稽古になる事もある。


むしろ、幹部同士が互いに工夫して稽古する事によって、お互いの意識も高まるのではないだろうかとも考えた。


道場の稽古は先生がいて、それを習うという立場で稽古する限り、絶対にといって良いほど伸びない。

武道とは自分で工夫して工夫して、それでも尚且つ工夫して、ある時、先生や自分より格上の人を見て、教えてもらうのではなく、盗むものである。


もし、私が教えることが出来るとしたら、それは盗み方かもしれない。

武道の稽古などは半年もすれば、一通りの形などは覚えて当たり前である。

それでも覚えられないというのは、単純に稽古不足であり、それ自体が受身の稽古のなのである。


形を工夫して自分のものにするのはあくまでも、自分である。

工夫とは観る、感じる力の上に成り立っている。

そして、本気で師とする人に問いかけることである。

師を引き出すことである。


無理にでも師の後ろを付いて回り、得ることである。

必死に引き出して自分のものにすることである。


用意された場、時間で学ぶ事は本来できないのだ。

奪う事である。


これは武道に限らず、あらゆる道と言う名が付くものは、そのようにして得るのある。

道は全て、自分が描くものであるからだ。