合気新道の目指すものは、永遠の故郷です。

人には誰でも故郷がある。しかし、その故郷を失った人(戦争や災害や都市開発や)、また生まれ育った場所はあってもそこに帰る場所を失った人、また様々な理由で故郷を愛せない人、そういう人が世の中にはたくさんおります。

私もその一人でもあります。


今、日本は日本人の故郷である事が失われようとしております。

もっと広く観れば世界は人間や生き物の故郷である事が失われようとしております。


それは誰の手によって?

他ならぬ人間自分自身の手によってです。


日本は遥か昔から続く、文化という目に見えない素晴らしい財産や美しい四季折々の自然。

地球は太古から流れる素晴らしい森や川や海という自然の営み。

そうしたものを人間が自分で自分の故郷を壊しております。


それは何故か?

私は人間一人一人が本当の故郷を忘れかけているからだと思います。

本当の故郷とは何か。


いつも、いつまでも、これからもずっと、在り続ける愛であります。

愛とは命そのものであります。


命そのものが愛なのです。

なぜなら、本当に自分自身が安心し、安らぐ事が出来るのは自分の存在価値を知った時なのです。

なぜ、自分はこの世に生まれ、苦難や不安と戦いながら、結局最後は死という消滅を迎えるのか?

なら、何故自分はこの世に生まれてきたのか?

その本当の意味を知る事が出来るなら、生きて事はなんて豊かでしょう。


人生の目的を得たなら、自分の価値をしるなら、人間はどんな時も心豊かに愛そのものとして生きることが出来ます。


そう、自分の人生の本当の目的、自分の価値を見つける、それが合気新道なのです。

今、ここにいる、自分。それは宇宙誕生から面々の受け継がれた命そのものです。

ここに至る長い長い旅、無限に広がる出会い、数え切れないドラマを経て今、ここに自分がいる。

そして、自分と向かい合う今であった他人、その全てに愛がある。


それを頭ではなく、理念ではなく、想念ではなく、いや、それを全て含んだ魂というものを大事に納めたこの宇宙の時空いっぱいに広がる命と向かい合う。この身体で、この手足で、この呼吸で自分と他人、自分と一切の他を結ぶこと

それが合気道であり、合気新道なのです。


その命の喜び、明日の命へ繋がる喜び、それが永遠の故郷。

それが合気新道の目指すものであります。


さて、守・破・離を通じて、多岐多様に対応できる力と基本原理を深める事によって価値観を固定せず様々なパラダイムを検証できる背筋を作ることが、現代における武道教育意義と言えるのではないでしょうか。

と書きましたが、重要なことは背筋というものでありましょう。

この背筋とは何か?というと信念にあたります。

信念とは信じるという思いを実現するという事であります。

全ては信を基礎としております。

しかしながら、現代日本においては信じるという事を悪とみなす傾向があります。

盲目的に信じると馬鹿をみるとか、先ずは疑ってかかる事が合理的であると言われます。

けれど疑ってみるという事には必ず何処かに自己の判断の基軸となる視点が必要になります。この視点を得ずして、疑う事も出来ないものであります。逆に言えば、多くの場合自己の利害損得の上で疑ってかかれという判断を育ててしまっており、その結果判断の基準が常に自己の我に囚われております。我を悪しというのではなく自分の見識や価値観に固定された視野での判断しか出来ないという事に気がついていないのであります。


では、何を信じればよいのか?という問題があります。

信じる代表的なものは信仰があります。

信仰というと鰯の頭も信心と言われるように、迷信と信心を同義語に扱われやすい。しかし、信じると言う言葉を肯定する心と捉えるなら信仰の意味が明確に見えて来るだろう。物事をポジティブに捉えるという事を信仰と言い換えてもよい。

信じるという事の裏側に裏切られるという言葉がある。しかし、この場合は自分の都合が基準であり損得をもって信じる行為を行っているに過ぎない。

真の信じるという事は如何なることも肯定して観る心であるから、対象を肯定する事で自分の都合をも変えてしまうことになる。これを先の守・破・離に当てはめれば守に拘らずに常に活用に即して応用に転じ、守である基本原理を更に進化させる事に通じる。

つまり、真実の信仰心とはあらゆる存在に対して肯定の眼をもって、常に活用に即することである。振り返ってわが国の宗教の根底には自然万物全てに神聖を認め、八百万の神として無数の神と共に仏教やキリスト教、儒教など様々な宗教を受け入れてきた。その事は日本人の神に対する信仰心は物事を前向きに捉え肯定する大らか心が前提にあるからではないだろうか。

武道道場においては神棚を常に道場の正面に置くところに、信仰と武道の深い結びつきが表現されている。

それは武道と言うものが本来、あらゆる場面において肯定する精神をもって常に活路を開くことに通じる。信がなくば武道は全否定に陥り、殺人剣、殺人法として陰惨なものとなる。自ずとそれを行うもの自身が最終的に自己を否定することに通じるものなるだろう。

例えば、剣でいうなら嵌め手とか、だまし討ちというものがあるが、これは邪道である。邪道でも勝った方がよいというのが現代の利己主義または損得勘定であるが、勝つにも勝ち方があり負けるにも負け方があるとは昔の侍の考えである。それは一時の勝ちはいずれかは負けに転じ、一時の負けはやがて勝つことに通じるという事を厳しい戦国時代に身にしみて知っていたからであろう。今も経済の上では戦国となんら変わらないのであるが、直ぐに一時の価値に有頂天になり、一時の負けに落ち込むものである。ここに信があれば、負けも勝ちも同じものとして常に今の様相を受け入れることが出来るものではないだろうか。


信とは肯定する心である。

企画を考える会議ではブレンストーミングという手法が用いられる事がある。これは出来るだけアイディアを出すためにどんなアイディアも否定しない。こうして出しきったアイディアを今の必要条件に当てはめて選択することが次の作業になるわけだ。


合気新道においては、こうした意味から信仰心を重んじる。

それは人智の及ばぬものもあるのだ、目に見えない存在や働きもあるのだという事を受け入れた時、目に見えるものや今の常識に縛られる事なくあらゆるものを肯定的に捉えるという心を養うためである。


武道はこの信じる心なくして王道はあり得ないのある。

この事を合気新道は長所進展という方法として活用している。

信仰心=肯定する心=長所進展法である。

長所進展法とはその人の特徴を可能性として伸ばす事により、その人の持つ負の力、トラウマを解消して行くのである。元々、特徴、個性は長所でもあり短所でもある。それは相対的価値観によって表された表現が長所か短所かであるからだ、従って個性を長所として自己を肯定する眼をによって観るならば、自分の個性を活かす場所を自分で得ることが出来るということである。

自分の居場所、自分の存在意義、自分の本当にしたい事。その全ては自分の個性を自分が認め、その活用を自分が考える事であり、個性を応用することである。

ここにも守・破・離の世界があるのだ。

現代の若者に限らず、多くの人が自分の居場所ややりがいが分からないと言う事があるが、それは実は自分の個性を否定しているからである。その否定はトラウマというものである。

これを克服して初めて人生の扉が創造へと羽ばたくのである。

合気新道はそれぞれの個性を長所と観て、その長所に当てはめて課題を投じる事が指導法の主旨である。


つづく


試合ということ。


それぞれの個性を長所と観て、その長所に当てはめて課題を投じる事が指導法の主旨であると書いたが、その具体的方法として合気新道はどのようなプログラムを有するかと言えば、その一つに演武というものがある。

合気新道は試合を行わない。正確に言えば競技として試合を捉えず、試合は原理の応用と活用の一環として位置づけている。

勝敗に拘る事を否定するものではなく、万人が試合の効用を享受するために勝敗に拘らない試合方法を模索している。

これは合気道の植芝盛平開祖の理念を温故知新に従って、原理・応用・活用に即するならば、できるだけ多くの人が合気道に参画出来る武道として成果をその都度享受できるシステムを考える事だ。

試合の勝敗に拘り、その成果を享受できる人は身体的、また多くの稽古に参加できる環境を得た人など一部の人間になりがちである。

しかし、合気道開祖は万人がその効用を享受できる道として合気道を創始した。私も合気新道を万人が享受できる教育システムとして確立してゆく中で試合という事についての考察を最も重要な事であると考えている。


試合を如何に勝敗への拘りから更に一歩踏み出して守・破・離のプログラムとして機能させる一つの手法に昇華できるかがテーマである。

長所進展として個性を前向きに捉える信を養い、信によって人生の活路を切り拓く柔軟かつ創意に満ちた稽古のプログラムとするところに主眼がある。

現在、演武という合気道の表現方法がある。これを私は演武を試合の主旨に照らし合わせて進化発展させる事が合気新道の温故知新であると考えている。


現在の合気道の演武は決まった技の形を通じて自己表現をしてゆく事で自己の境地を表しているが、境地という自己の心境や視野の広がりを得る事はそれぞれの普段の稽古に委ねられている。演武そのものがプログラムの一環とされていない事は否めないであろう。


そこで、合気新道においては、それぞれの習熟習得に即し、それぞれの課題を明確にして一つの目標に向かってアプローチを描く場として演武を用いる。

例えば、入門目録を得たものは礼儀立ちすわり等の所作が真に身についているかを表現する場である。身に付くとは如何にそれを応用し活用するかという事である。従って、ただ礼をするのではなく、演武という魅せる場で如何に自己の個性を礼の中で表現できるかという事をテーマに各自が創造する演武を行う。

どの様な順序でどの様に、またどの様な場面で魅せる事が出来るか、また演武会の運営の中でどの様にその礼法を活用することが出来るか、その全てが試合なのである。また、教士目録においては普段から指導というテーマを得ているが、指導者として如何に多くの門人の個性を見て長所に転じる演武指導が出来るか、また自身においては他の個性を長所として肯定して行く視点に立ち、演武においては相手を如何に活かしきるかという事や多人数に対処して行く事がテーマとして上げられるであろう。


この様に演武の企画、運営、指導、自己テーマの発見、表現、全てが試合となる。

勝ち負けという事だけに拘るならジャンケンとて同じである。

しかし、真の勝ち負けを模索するなら、その勝敗に何を求めるかである。

負けない心をテーマとするならば、そのシュチエーションを演武で模索する方法もある。100人掛かり稽古を演武にする事も出来る。

自己の個性を長所として活用する場が演武である。言い換えれば個性とは活かしてこそ長所に変ずる。即ち自分が自分を取り囲む世界の中でどの様な位置にあるかを肯定的な眼で認識し活用するかという稽古である。この稽古をによってそれぞれの人生は開かれてゆくのだ。


現代武道の意義


現代社会において武道は護身・健康・競技・教育として様々な目的を有している。


護身においては武道が果たして何処まで護身という目的を果たせるであろうか?例えば、暴漢に出逢った場合に対処する方法として技術を取り上げている場合もあるが生兵法怪我の元という言葉どおり、いざという時に咄嗟に身を処する事はとても難しい、まして現代の護身という意味においては振り込み詐欺のような詐欺、巧妙なセールスなど金銭に絡む事の方が遥かに個人の生活や人生に対する危険は大きい、この場合に武道の技術面だけでは護身と言う目的は到底達することは不可能である。

従って、武道における護身という意味では危険を察するという事が第一義であり、その前提として判断力と常識力を養うという事が大切である。しかし、これは何も武道によってのみではありません。むしろ現代武道において、判断力と常識の習得において稽古システムの中に明確に取り入れている道場は少ないであろう。


健康という面においては適度に身体を動かすという意味においては、多少の健康維持に繋

がるが、健康という課題を考える場合、身体の修正および強化を通じて病気故障の予防や回復に役立てるものとして明確なプランを稽古体系の中に表している武道も少ないように思われる。また、身体を動かす事により健康をテーマにするものは武道の特権ではなく、スポーツ全般にあり、むしろその分野において明確なアプローチを行っているスポーツもある。武道として健康の効用を語る場合は武道の独自性と共に明確な稽古システムとプランが必要になるだろう。


競技としては、武道のみならずスポーツ全般に通じるものであり、ここに武道の個性を発揮することは難しい。柔道が武道をスポーツとして現在社会の位置を確保した事は大きな功績でもあるが、武道の独自性が失われる方向でもあった事は否めない。


教育においては、現代スポーツにおける効用として身体育成と身体鍛錬を通じた抗ストレス性、競技による積極的闘争心の向上、イメージの身体的具現化訓練による目的意識の明確化などが考えられるが、その意味において武道教育はスポーツ全体のカテゴリーに中にあり、独自の目的を明確化した教育システムが明らかにされている道場も少ないように思われる。



さて、近々、中学校の必須科目に武道が取り入れらる事となっている。

しかし、武道の現代における独自の意義が明確されてない中で形ばかりに武道を取り立てても目的を果たす事は困難である。


教育においては武道を通じて求められているものとして、一般的に礼節を体得するものとして上げられている事が多い、また古来伝統文化としての日本武道と言われる事もある、しかし、教育の視点の中で、どの様な特徴が日本武道にあるのかを明らかにされていないようにも思える。


以上から、私は合気新道において、現代における武道として意義を明確に表しスタンスを定めたいと思う。


合気新道は温故知新を旨とする。温故知新とは合気道の開祖が掴んだ原理を応用し現代に活用することである。

温故知新とは守・破・離の体現であります。

守を原理と解釈するなら、破は応用に当り、離は活用と理解する事も出来ます。

これは段階を言うのではなく、常に物事を学ぶ際には原理、応用、活用の三つの視点によって学ぶ事が実践を意味する。

武道は常に実践に即してこそ生きるものであり、即ち存在意義を明確にするものであると思う。


日本武道の稽古という教育システムを紐解けば、全てがこの守・破・離を機軸としていた。

それは師弟関係の中に現されている。今の様に手取り足取り物を教えるのではなく、弟子が師の一挙一動を観て取るという事で奥義を会得するものであった。故に道場は生活の場であり、掃除、洗濯、炊飯、師の身の回りの世話、後輩の面倒など全てが稽古の一環であり、その実践が武道の基本原理に即しておりました。

これは武道というよりも諸芸、道において古来よりの教育システムでもありました。このシステムの雛形になったものが寺、仏教などの影響があるとも考えられます。


このシステムが現代においては失われつつあります。

教育は先生が教えるものであり、教わるものがそれを学ぶものという中で、守・破・離の体系が崩れてきたものと思われます。


原理を見抜く目を養う事が活用という場を与える事であり、活用があってこそ、応用する心が生じます。この場合、活用が狭ければ応用範囲も狭く、応用が狭まれば基本原理の理解が低くなります。逆に活用として生活全般を与えられると、応用範囲が広く多岐に渡り、自然と原理は応用の範囲に即して万能として磨かれる。即ち原理への理解が深まるものであります。


このように、まず武道の学びのシステムを復活させる事、温故知新によって現せば、いかに現代社会に即して、守・破・離を取り入れたシステムを組み立てるかであると思います。


過去の様に師弟関係を現代社会や学校の中で蘇らせる事は現状では困難であります。それは生活環境が違うということであります。しかし、その主旨理解するならば、現代に合った形が出来るものでもあります。


合気新道においてはこのシステムを目録習得の基準に置きました。つまりプロセスとして取り入れております。

例えば、初心の者は基本として礼儀作法立ち坐りという所作を覚える事で初めて入門者と認められます。これは合気新道という社会=ルールに参加する事を認識する事で初めて入門者となります。次に基本の技の形と名前を学ぶ事で修士という目録が与えられます。この目録は技を学ぶにはまず道場の先輩、後輩の面倒や掃除などの基本的日常の運営に参加する事が課題ですという課題示唆であります。

この課題示唆を応えて行く中で次の目録である助教目録を目指します。

助教目録とは先生の指導の補助をすると言うことです。

指導補助においては準備体操や基本的身体の操作、道場のルールを指導するという事です。

この助教を経て初めて黒帯者である、教代目録を受験します。教代目録とは指導者として道場に立つ者という課題を得ることです。

その次が教士目録、自分の教室を持つ事、師範代目録は自分の道場を運営する事、師範は新たな自身のコンセプトで自流を開くことです。


このように道場の運営や武道経営に関わる事に参画するプロセスで実践の場を得て応用を広げ、原理を深める事が合気新道の教育システムの基本となっております。


特に現代社会では一つの問いに一つの答えを求める事を尊重されております。

学校のテストもそのようであり、仕事の場でも注文に対して同じ品質のものという様にです。その為に価値観が固定されております。

多種多様の価値観が現代の特徴であるように言われておりますが、実は個々の利害の範囲が広がっているだけであり、本質的には自己の利害の範囲に縛られた価値観でもあります。

その事によって善悪の基準が利害の基準に摩り替えられております。

例えば、最近の傾向として、殺人が自己の利害の上に成り立っております。自分に都合が悪いものを排除するという問題と結果が短絡的なのです。

問題に対して多岐に渡る視野と視点を得ることが出来るなら、問題解決方法は数多くなり、選択枝も増えます。この時に初めて価値観は幅を得て自分を追い詰める事無く活路を得る事も出来るはずなのです。


価値観が真に豊富な世の中であれば何故、金銭に困れば自己破産や自殺、夫婦の問題解決は離婚、対人関係の縺れは殺人と短絡的な結果に繋がる事件が多くなるでしょうか。


守・破・離を通じて、多岐多様に対応できる力と基本原理を深める事によって価値観を固定しない視点を固定せず様々なパラダイムを検証できる背筋を作ることが、現代における武道教育意義と言えるのではないでしょうか。

まず、合気新道においては、そのスタンスにおいて様々な教育プログラムを創意工夫し手行きたいと存じます。


続く