現代武道の意義


現代社会において武道は護身・健康・競技・教育として様々な目的を有している。


護身においては武道が果たして何処まで護身という目的を果たせるであろうか?例えば、暴漢に出逢った場合に対処する方法として技術を取り上げている場合もあるが生兵法怪我の元という言葉どおり、いざという時に咄嗟に身を処する事はとても難しい、まして現代の護身という意味においては振り込み詐欺のような詐欺、巧妙なセールスなど金銭に絡む事の方が遥かに個人の生活や人生に対する危険は大きい、この場合に武道の技術面だけでは護身と言う目的は到底達することは不可能である。

従って、武道における護身という意味では危険を察するという事が第一義であり、その前提として判断力と常識力を養うという事が大切である。しかし、これは何も武道によってのみではありません。むしろ現代武道において、判断力と常識の習得において稽古システムの中に明確に取り入れている道場は少ないであろう。


健康という面においては適度に身体を動かすという意味においては、多少の健康維持に繋

がるが、健康という課題を考える場合、身体の修正および強化を通じて病気故障の予防や回復に役立てるものとして明確なプランを稽古体系の中に表している武道も少ないように思われる。また、身体を動かす事により健康をテーマにするものは武道の特権ではなく、スポーツ全般にあり、むしろその分野において明確なアプローチを行っているスポーツもある。武道として健康の効用を語る場合は武道の独自性と共に明確な稽古システムとプランが必要になるだろう。


競技としては、武道のみならずスポーツ全般に通じるものであり、ここに武道の個性を発揮することは難しい。柔道が武道をスポーツとして現在社会の位置を確保した事は大きな功績でもあるが、武道の独自性が失われる方向でもあった事は否めない。


教育においては、現代スポーツにおける効用として身体育成と身体鍛錬を通じた抗ストレス性、競技による積極的闘争心の向上、イメージの身体的具現化訓練による目的意識の明確化などが考えられるが、その意味において武道教育はスポーツ全体のカテゴリーに中にあり、独自の目的を明確化した教育システムが明らかにされている道場も少ないように思われる。



さて、近々、中学校の必須科目に武道が取り入れらる事となっている。

しかし、武道の現代における独自の意義が明確されてない中で形ばかりに武道を取り立てても目的を果たす事は困難である。


教育においては武道を通じて求められているものとして、一般的に礼節を体得するものとして上げられている事が多い、また古来伝統文化としての日本武道と言われる事もある、しかし、教育の視点の中で、どの様な特徴が日本武道にあるのかを明らかにされていないようにも思える。


以上から、私は合気新道において、現代における武道として意義を明確に表しスタンスを定めたいと思う。


合気新道は温故知新を旨とする。温故知新とは合気道の開祖が掴んだ原理を応用し現代に活用することである。

温故知新とは守・破・離の体現であります。

守を原理と解釈するなら、破は応用に当り、離は活用と理解する事も出来ます。

これは段階を言うのではなく、常に物事を学ぶ際には原理、応用、活用の三つの視点によって学ぶ事が実践を意味する。

武道は常に実践に即してこそ生きるものであり、即ち存在意義を明確にするものであると思う。


日本武道の稽古という教育システムを紐解けば、全てがこの守・破・離を機軸としていた。

それは師弟関係の中に現されている。今の様に手取り足取り物を教えるのではなく、弟子が師の一挙一動を観て取るという事で奥義を会得するものであった。故に道場は生活の場であり、掃除、洗濯、炊飯、師の身の回りの世話、後輩の面倒など全てが稽古の一環であり、その実践が武道の基本原理に即しておりました。

これは武道というよりも諸芸、道において古来よりの教育システムでもありました。このシステムの雛形になったものが寺、仏教などの影響があるとも考えられます。


このシステムが現代においては失われつつあります。

教育は先生が教えるものであり、教わるものがそれを学ぶものという中で、守・破・離の体系が崩れてきたものと思われます。


原理を見抜く目を養う事が活用という場を与える事であり、活用があってこそ、応用する心が生じます。この場合、活用が狭ければ応用範囲も狭く、応用が狭まれば基本原理の理解が低くなります。逆に活用として生活全般を与えられると、応用範囲が広く多岐に渡り、自然と原理は応用の範囲に即して万能として磨かれる。即ち原理への理解が深まるものであります。


このように、まず武道の学びのシステムを復活させる事、温故知新によって現せば、いかに現代社会に即して、守・破・離を取り入れたシステムを組み立てるかであると思います。


過去の様に師弟関係を現代社会や学校の中で蘇らせる事は現状では困難であります。それは生活環境が違うということであります。しかし、その主旨理解するならば、現代に合った形が出来るものでもあります。


合気新道においてはこのシステムを目録習得の基準に置きました。つまりプロセスとして取り入れております。

例えば、初心の者は基本として礼儀作法立ち坐りという所作を覚える事で初めて入門者と認められます。これは合気新道という社会=ルールに参加する事を認識する事で初めて入門者となります。次に基本の技の形と名前を学ぶ事で修士という目録が与えられます。この目録は技を学ぶにはまず道場の先輩、後輩の面倒や掃除などの基本的日常の運営に参加する事が課題ですという課題示唆であります。

この課題示唆を応えて行く中で次の目録である助教目録を目指します。

助教目録とは先生の指導の補助をすると言うことです。

指導補助においては準備体操や基本的身体の操作、道場のルールを指導するという事です。

この助教を経て初めて黒帯者である、教代目録を受験します。教代目録とは指導者として道場に立つ者という課題を得ることです。

その次が教士目録、自分の教室を持つ事、師範代目録は自分の道場を運営する事、師範は新たな自身のコンセプトで自流を開くことです。


このように道場の運営や武道経営に関わる事に参画するプロセスで実践の場を得て応用を広げ、原理を深める事が合気新道の教育システムの基本となっております。


特に現代社会では一つの問いに一つの答えを求める事を尊重されております。

学校のテストもそのようであり、仕事の場でも注文に対して同じ品質のものという様にです。その為に価値観が固定されております。

多種多様の価値観が現代の特徴であるように言われておりますが、実は個々の利害の範囲が広がっているだけであり、本質的には自己の利害の範囲に縛られた価値観でもあります。

その事によって善悪の基準が利害の基準に摩り替えられております。

例えば、最近の傾向として、殺人が自己の利害の上に成り立っております。自分に都合が悪いものを排除するという問題と結果が短絡的なのです。

問題に対して多岐に渡る視野と視点を得ることが出来るなら、問題解決方法は数多くなり、選択枝も増えます。この時に初めて価値観は幅を得て自分を追い詰める事無く活路を得る事も出来るはずなのです。


価値観が真に豊富な世の中であれば何故、金銭に困れば自己破産や自殺、夫婦の問題解決は離婚、対人関係の縺れは殺人と短絡的な結果に繋がる事件が多くなるでしょうか。


守・破・離を通じて、多岐多様に対応できる力と基本原理を深める事によって価値観を固定しない視点を固定せず様々なパラダイムを検証できる背筋を作ることが、現代における武道教育意義と言えるのではないでしょうか。

まず、合気新道においては、そのスタンスにおいて様々な教育プログラムを創意工夫し手行きたいと存じます。


続く