さて、守・破・離を通じて、多岐多様に対応できる力と基本原理を深める事によって価値観を固定せず様々なパラダイムを検証できる背筋を作ることが、現代における武道教育意義と言えるのではないでしょうか。

と書きましたが、重要なことは背筋というものでありましょう。

この背筋とは何か?というと信念にあたります。

信念とは信じるという思いを実現するという事であります。

全ては信を基礎としております。

しかしながら、現代日本においては信じるという事を悪とみなす傾向があります。

盲目的に信じると馬鹿をみるとか、先ずは疑ってかかる事が合理的であると言われます。

けれど疑ってみるという事には必ず何処かに自己の判断の基軸となる視点が必要になります。この視点を得ずして、疑う事も出来ないものであります。逆に言えば、多くの場合自己の利害損得の上で疑ってかかれという判断を育ててしまっており、その結果判断の基準が常に自己の我に囚われております。我を悪しというのではなく自分の見識や価値観に固定された視野での判断しか出来ないという事に気がついていないのであります。


では、何を信じればよいのか?という問題があります。

信じる代表的なものは信仰があります。

信仰というと鰯の頭も信心と言われるように、迷信と信心を同義語に扱われやすい。しかし、信じると言う言葉を肯定する心と捉えるなら信仰の意味が明確に見えて来るだろう。物事をポジティブに捉えるという事を信仰と言い換えてもよい。

信じるという事の裏側に裏切られるという言葉がある。しかし、この場合は自分の都合が基準であり損得をもって信じる行為を行っているに過ぎない。

真の信じるという事は如何なることも肯定して観る心であるから、対象を肯定する事で自分の都合をも変えてしまうことになる。これを先の守・破・離に当てはめれば守に拘らずに常に活用に即して応用に転じ、守である基本原理を更に進化させる事に通じる。

つまり、真実の信仰心とはあらゆる存在に対して肯定の眼をもって、常に活用に即することである。振り返ってわが国の宗教の根底には自然万物全てに神聖を認め、八百万の神として無数の神と共に仏教やキリスト教、儒教など様々な宗教を受け入れてきた。その事は日本人の神に対する信仰心は物事を前向きに捉え肯定する大らか心が前提にあるからではないだろうか。

武道道場においては神棚を常に道場の正面に置くところに、信仰と武道の深い結びつきが表現されている。

それは武道と言うものが本来、あらゆる場面において肯定する精神をもって常に活路を開くことに通じる。信がなくば武道は全否定に陥り、殺人剣、殺人法として陰惨なものとなる。自ずとそれを行うもの自身が最終的に自己を否定することに通じるものなるだろう。

例えば、剣でいうなら嵌め手とか、だまし討ちというものがあるが、これは邪道である。邪道でも勝った方がよいというのが現代の利己主義または損得勘定であるが、勝つにも勝ち方があり負けるにも負け方があるとは昔の侍の考えである。それは一時の勝ちはいずれかは負けに転じ、一時の負けはやがて勝つことに通じるという事を厳しい戦国時代に身にしみて知っていたからであろう。今も経済の上では戦国となんら変わらないのであるが、直ぐに一時の価値に有頂天になり、一時の負けに落ち込むものである。ここに信があれば、負けも勝ちも同じものとして常に今の様相を受け入れることが出来るものではないだろうか。


信とは肯定する心である。

企画を考える会議ではブレンストーミングという手法が用いられる事がある。これは出来るだけアイディアを出すためにどんなアイディアも否定しない。こうして出しきったアイディアを今の必要条件に当てはめて選択することが次の作業になるわけだ。


合気新道においては、こうした意味から信仰心を重んじる。

それは人智の及ばぬものもあるのだ、目に見えない存在や働きもあるのだという事を受け入れた時、目に見えるものや今の常識に縛られる事なくあらゆるものを肯定的に捉えるという心を養うためである。


武道はこの信じる心なくして王道はあり得ないのある。

この事を合気新道は長所進展という方法として活用している。

信仰心=肯定する心=長所進展法である。

長所進展法とはその人の特徴を可能性として伸ばす事により、その人の持つ負の力、トラウマを解消して行くのである。元々、特徴、個性は長所でもあり短所でもある。それは相対的価値観によって表された表現が長所か短所かであるからだ、従って個性を長所として自己を肯定する眼をによって観るならば、自分の個性を活かす場所を自分で得ることが出来るということである。

自分の居場所、自分の存在意義、自分の本当にしたい事。その全ては自分の個性を自分が認め、その活用を自分が考える事であり、個性を応用することである。

ここにも守・破・離の世界があるのだ。

現代の若者に限らず、多くの人が自分の居場所ややりがいが分からないと言う事があるが、それは実は自分の個性を否定しているからである。その否定はトラウマというものである。

これを克服して初めて人生の扉が創造へと羽ばたくのである。

合気新道はそれぞれの個性を長所と観て、その長所に当てはめて課題を投じる事が指導法の主旨である。


つづく


試合ということ。


それぞれの個性を長所と観て、その長所に当てはめて課題を投じる事が指導法の主旨であると書いたが、その具体的方法として合気新道はどのようなプログラムを有するかと言えば、その一つに演武というものがある。

合気新道は試合を行わない。正確に言えば競技として試合を捉えず、試合は原理の応用と活用の一環として位置づけている。

勝敗に拘る事を否定するものではなく、万人が試合の効用を享受するために勝敗に拘らない試合方法を模索している。

これは合気道の植芝盛平開祖の理念を温故知新に従って、原理・応用・活用に即するならば、できるだけ多くの人が合気道に参画出来る武道として成果をその都度享受できるシステムを考える事だ。

試合の勝敗に拘り、その成果を享受できる人は身体的、また多くの稽古に参加できる環境を得た人など一部の人間になりがちである。

しかし、合気道開祖は万人がその効用を享受できる道として合気道を創始した。私も合気新道を万人が享受できる教育システムとして確立してゆく中で試合という事についての考察を最も重要な事であると考えている。


試合を如何に勝敗への拘りから更に一歩踏み出して守・破・離のプログラムとして機能させる一つの手法に昇華できるかがテーマである。

長所進展として個性を前向きに捉える信を養い、信によって人生の活路を切り拓く柔軟かつ創意に満ちた稽古のプログラムとするところに主眼がある。

現在、演武という合気道の表現方法がある。これを私は演武を試合の主旨に照らし合わせて進化発展させる事が合気新道の温故知新であると考えている。


現在の合気道の演武は決まった技の形を通じて自己表現をしてゆく事で自己の境地を表しているが、境地という自己の心境や視野の広がりを得る事はそれぞれの普段の稽古に委ねられている。演武そのものがプログラムの一環とされていない事は否めないであろう。


そこで、合気新道においては、それぞれの習熟習得に即し、それぞれの課題を明確にして一つの目標に向かってアプローチを描く場として演武を用いる。

例えば、入門目録を得たものは礼儀立ちすわり等の所作が真に身についているかを表現する場である。身に付くとは如何にそれを応用し活用するかという事である。従って、ただ礼をするのではなく、演武という魅せる場で如何に自己の個性を礼の中で表現できるかという事をテーマに各自が創造する演武を行う。

どの様な順序でどの様に、またどの様な場面で魅せる事が出来るか、また演武会の運営の中でどの様にその礼法を活用することが出来るか、その全てが試合なのである。また、教士目録においては普段から指導というテーマを得ているが、指導者として如何に多くの門人の個性を見て長所に転じる演武指導が出来るか、また自身においては他の個性を長所として肯定して行く視点に立ち、演武においては相手を如何に活かしきるかという事や多人数に対処して行く事がテーマとして上げられるであろう。


この様に演武の企画、運営、指導、自己テーマの発見、表現、全てが試合となる。

勝ち負けという事だけに拘るならジャンケンとて同じである。

しかし、真の勝ち負けを模索するなら、その勝敗に何を求めるかである。

負けない心をテーマとするならば、そのシュチエーションを演武で模索する方法もある。100人掛かり稽古を演武にする事も出来る。

自己の個性を長所として活用する場が演武である。言い換えれば個性とは活かしてこそ長所に変ずる。即ち自分が自分を取り囲む世界の中でどの様な位置にあるかを肯定的な眼で認識し活用するかという稽古である。この稽古をによってそれぞれの人生は開かれてゆくのだ。