心とは何か?という問いは、決め付ける事は出来ません。しかし、合気新道という武道の立場からは心を身体全部と考えます。

心と身体は別物ではなく、全く一つのものと考えます。

身体というものは限りあるものと考えるから、心は無限であるという相対的な存在に見立てます。

しかし、身体も無限であると観るならば、心も身体も一つなのです。


寿命には限りがあります。

肉体には限界があります。


はたして、そうでしょうか?


勿論、私も年老いて行くでしょう。病気や事故で死ぬかもしれません。

けれど、土にはなれるかもしれません。

灰にもなれるかもしれません。

水に帰るかもしれません。

地球に戻るだけの事です。


そして、今の自分を観れば、地球を循環する大気や水、他の生命の連鎖を得る事無しに今ある形を維持することは出来ません。

言い換えれば、ここにある形は地球が表わしている一つの言葉、ある音楽、気まぐれな絵画かもしれません。


いずれにしても、この身体は常に地球と繋がっております。

ならば、何処から何処までが私なのでしょうか?


地球は太陽や銀河の一員です。

少しでも軌道が外れれば一瞬で消滅するでしょう。


この地球も宇宙の表わした音楽です。


肉体は無限なのです。

その無限である肉体が調和して奏でる音楽。

調和している姿そのものが「心」だと私は考えます。


ヨガの沖正弘先生は「生命即神」と申され、合気道の植芝開祖は「我即宇宙」と申されました。

それは抽象的概念ではなく、この身体を通じて命を理解するものが人間なのだと私は考えるのです。


その命を理解し味わい、創造しつづける営み、それが呼吸という剣であり、楽器であり、絵筆なのです。


泣く時は肩を揺すり、笑うときは腹を抱え、怒りは熱い息を吐き、喜びに胸を膨らませ、生まれるときは全身全霊で身から息を吐き出し、死ぬ時は静かに息を引き取ります。


生命の実相をこれほどまで呼吸は表現してくれます。

この呼吸を理解し、呼吸から学び、呼吸を使いこなす事が「生きる」=息る事であると考えます。


両手を広げてください。

そして肩甲骨を寄せます。

すると、仙骨が上がります。

肋骨は開き、肺に充分なスペースを与えます。

その姿勢のままにため息を吐くように胃の辺りの息を吐きましょう。

肩が下がります。

そしたら、舌を上あごに付けるようにして鼻から息を吸います。腹いっぱい息を膨らまします。

腹がいっぱいになったら、胸まで息を吸います。

そしていっぱいになったら息を少し止めます。


そして、舌を下顎の歯の裏につけて息をゆっくり吐き出します。腕は自分を抱きしめる様にします。

吐ききったら再び手を広げ鼻から息を吸うのです。




佐世保 温故知新の合気道 合気新道-開く

自由


呼吸ほど自分を言うもの表わすものはないでしょう。

言葉も身体操作も全て呼吸が表わします。


メールや文章で伝わりにくいもの呼吸です。

呼吸が伝わりにくいから真偽を計りがたい為に会って話しましょうという事がある。


しかし、呼吸の意味を知らないと会って話しても同じことなのです。


呼吸を知ると呼吸に騙されにくくなります。

嘘を言えば呼吸に乱れが見えます。

呼吸を整える訓練をすると、その嘘を隠すことも出来ますが、逆に呼吸を整える訓練をすると嘘の無意味さが身に分かって嘘が言えなくなります。


文章やメールでも呼吸というものがあります。


呼吸とは受け応えでもありますから、

文章の中にある。受け応えをよく読むと呼吸を見ることができます。


知っていながら態と書かない事、態々書いて示す事、相手に問いかける事。

その中に呼吸という表情があります。


この呼吸を読むという事は、行として日常で自分の身体の呼吸に慣れ親しむ事なしには出来ない事です。


身体の呼吸を知って、言葉の呼吸を知るです。

動物や草木の言葉を聴くことが出来るとは、呼吸を聞く事が出来るという事であると思います。


地球は一つの生命として呼吸をしております。

地球の言葉も呼吸を通じて私達も聞く事が出来るのです。