身体のポジショニングの著者である藤本先生とお会いいたします。素晴らしい本です。そして隅々まで愛情の込められた文章です。


その後に月刊秘伝の編集局へお邪魔致します。

12月14日発売の秘伝には再び原稿が掲載される予定です。


その足で菊野選手の所属しているアライアンスのジムへ伺います。

奥様ともお会い出来る事を楽しみにいたしてます。


また、その足で龍雲先生のスタジオを見学予定。

カンフーの第一人者であられる龍雲先生のスタジオは赤坂見附のベルビー赤坂にあります。

都心の真ん中でカンフーとヨガのスタジオを経営されてます。


私も来春オープンする道場を今までの武道道場の概念から飛び出して、もっとスタイリッシュに、

そしてオープンな感じでと考えおり、ぜひ参考にさせていただきたと考えております。


駆け足で回ります。

久々に堪忍袋の緒が切れる。ここでは公的な立場に対して名指しでは言わないが、あまりにズサンであり、手抜きであり、信念の欠片もない。事なかれであり、自分の立場しか考えず、物事の根本に向かわない。そんな事で民間ではとても建設できないような箱物を管理し、上から物事を言う。

それを子供達にどのように説明するというのだ。


この場で是非を決まられないならば、決められる人と現場と話し合いましょうと言えば、こんな事で呼び出す事は出来ないといい、ではどうするのか?と聞けば認めないけれど、するのでしょ?と応える。しますよと言えば、そうですかしか言わない。では貴方はどうするのですか?止めさせるのでか?と聞けば、認めるません。という、では止めさせたいのですね。ならばそれが出来る様にすればよいではないですか?と言えば、平行線ですからと言う。だから決められる人と現場と話しましょうと言えば、回答しない。

では来週もやりますよ。いいんですね?と聞けば、いいとは言えませんと言いながら、何もしない。


それで、またやると、止めてくださいと言う。

だから、はっきりさせましょうと言えば、一般常識からして止めてしかるべきだと言う。

一般常識とは誰が決めるのですか?と言えば私が決めますという。

そんな権限はないのではないですかというと、もういいです。やってくださいと言う。


これだけではなんの事か読まれている方は分からないと思います。


私がしている事は、この10年間子供達とやってきた事であり、器物を壊したり、公の秩序を乱す事でもありません。子供達の教育として遊ぶという事を真剣に取り組み、安全で怪我の無いものを、また他の利用者に迷惑をかからないように気を使いながら行った事です。

もちろん、施設利用の規約にも禁止されている事でもなく、ただしくは明記されていないものです。


それが何故、駄目なのか、根拠を聞いているだけなんですね。

それも10年間やってきた事です。

管理人が変るたびに、その判断で決められては、この10年間汗水流して、子供と向かい合って来た全てが、根拠なく否定される。そんな事はあってはなりませんし、そうした事にただハイと従う事を子供に見せるわけには行きません。


何も、絶対止めないという訳ではありません。

きちんと決められる人と現場と私達が何故それを続けるのかを話し合い、その上での決定なら、子供も納得できる事です。しかし、それをしようとしない。


こんな事でお偉いさんを呼ぶのはと言う。


で、私は大音声で「馬鹿者!!」と一喝を入れました。


その管理人さんは子供達に聞いてもよいですか?と言う。

どうぞという、その人はおかしいと思いませんか?と聞く。

子供は全員、NO。中にははっきりと私達がしている事は正しいと言う。


そう、その管理人さんが言っている事はお偉いさんを呼ぶまでもない小さな事なんです。

それでも私達が大切にして、子供と身体と心を通して、共に考えて来た道なんです。

その道をあやふやして、それをルールと呼んで、何が子供達に伝えられるしょうか。


私はこれがチャンスだと思ってます。


その人に貴方達が出来ないなら、私が直接、しかるべき人に話しましょう。

それは私の仕事ではありませんが、貴方がしないなら私がするしかありません。

その事を尽くし、初めて白黒はっきりさせましょう。

そこで決まった事は私も従います。

と申しました。


何を言うのですか?

というの、貴方達の悪口は言いません。事実と、どうすべきかを話すだけです。文章で出します。

いいですねという。


すると、私を馬鹿者と言ったことを謝罪しないのですかと言う。

私は貴方が指導中にあやふや状態で土足で稽古を踏みにじったので、怒ったのである。

もし、武士の世なら私はその場で貴方を斬ったでしょう。

それだけの事を貴方はしている。無礼であると申しました。


ここでは、誰が何処で何をという事を書きません。

書くべきではないからです。


しかし、なぜこんな事を書くかといえば、世の中にはこんな事がおおいからです。

それを御座なりにする事は今の世の中では限界なのです。

なにも政治家ばかりに頼る必要はないし、

世の中の矛盾を誰かの仕業にする必要はありません。


そして、ここで書いていることは私の目線であり、私の想いですから、必ずしも私が正しいわけではありません。

しかし、納得のいかない事には声を発し、正しいか正しくないかを、あるべき姿として判断できる環境を大切にする。そのルールを省かない。


それを大人がしなければ子供いくら礼儀を教えても響かないのであります。

上から押さえつければ丁寧な言葉も礼儀正しいような態度も子供はするでしょう。

しかし、世界に出て、この国を支えて、守って、その為の心を鍛える事になりません。


私はそう思います。

子供のを声をもっと聞いて、子供の心に働きかけて、たとえ、子供に言い続けている事が最終的に認められなくても、私の考えが間違っていると判断されても、そこまでしっかり見せる事を私はしたい、そう思います。

何にでも通じる事ではありますが、失敗を恐れてはならない。けれど、失敗は良い事ではない。出来るなら失敗をしない方がよいのです。けれど道を拓く人、あたらしい物事を産み出して行く人は多くの失敗をして、そこから課題を得、その課題に対する答えを見つけ出して行く行動力のある人であると思う。

そういう人は時には悪人にさえ思われることもある。しかし、悪人というレッテルを恐れては、新たな事は出来ないものであろう。


人は誰しも善く思われたいものであるし、悪人と言われる事を好まない。それは同時に危険を犯してまでという事にも通じる。だから、誰かがやった事を確かめて、その道筋を辿る安全を選択する。それは間違えでは無い。そういう事も大切な事だ。


ただ、環境が現状に耐える事が出来ない時、変革の必要性があるとき、危機に直面して前に人が居ないとき、そういう時は恐れずに前に出るより仕方がない。その時に失敗を恐れてはならない。


護身という事で、危険に近寄らず、危険を冒さず、されど危険を恐れずと、先の日記に書いたが、これはそのまま、あくに近寄らず、悪を犯さず、されど悪を恐れずという事に通じるかもしれない。

親鸞聖人の「悪人なおもて、」という言葉を思い出す。


さて、そうして苦労して、新たな発見や気付き、ノウハウを得たとしよう。

それを、自分の物として他に公開する事を惜しむ心が生まれる。

こんなに苦労したのだから、この苦労を自分に報いたいという思いだ。

ビジネスでも、料理の秘訣でも、そうした秘伝やコツ、そうしたものを明かさず、自社の武器、お店の強み、自分の証としたいという事は自然な思いだ。そして事実、そうした強みを持つことで他を勝ち抜くことも多い。


けれど、一歩進んでみよう。

得たものは全て明かす。

明け渡す。

そして、自分は更に前に進む。

そのことで道は大きく開く。

大きく伸びる。


コツやノウハウをドンドン、後から来る人に見せてしまう。それが必要なものであり、必要な人がいればいるほど、そのコツや秘伝やノウハウを求めて人は来る。

その来た人を更に進むことで大きな流れに変えてゆく。


組織や仲間、企業や地域、国を発展させて行くという事はそういうことであろうかと思う。


後から来る人には失敗を恐れないように、小さな失敗から学び、その学び得た事を伝える喜びとその喜びに支えられて更に前に上に歩む心を導く事が大切だ。

そうした学びとノウハウのネットワークはダイナミックな連携によって生き生きとした組織や仲間を生み出す。


先に歩むものは後から来るものの失敗を生かさねばならない。ただ叱るのはではない。自分のノウハウに従わせる事ではない。自分が得たノウハウやコツや秘訣などは物事の一側面、一部分にしか過ぎない。

後から来る人に指導して失敗したとして、それもまた貴重な経験、課題として、物事の別な側面を観る事になり、大いに発展の兆しを得る事に通じる。

その失敗から何かを得られるように勇気付け、時には見守り、時には導く事で、得がたい力を得る。

そうした総和を持って、組織や企業、地域や国が進んで行くときに何の恐れがあるだろうか。