久々に堪忍袋の緒が切れる。ここでは公的な立場に対して名指しでは言わないが、あまりにズサンであり、手抜きであり、信念の欠片もない。事なかれであり、自分の立場しか考えず、物事の根本に向かわない。そんな事で民間ではとても建設できないような箱物を管理し、上から物事を言う。

それを子供達にどのように説明するというのだ。


この場で是非を決まられないならば、決められる人と現場と話し合いましょうと言えば、こんな事で呼び出す事は出来ないといい、ではどうするのか?と聞けば認めないけれど、するのでしょ?と応える。しますよと言えば、そうですかしか言わない。では貴方はどうするのですか?止めさせるのでか?と聞けば、認めるません。という、では止めさせたいのですね。ならばそれが出来る様にすればよいではないですか?と言えば、平行線ですからと言う。だから決められる人と現場と話しましょうと言えば、回答しない。

では来週もやりますよ。いいんですね?と聞けば、いいとは言えませんと言いながら、何もしない。


それで、またやると、止めてくださいと言う。

だから、はっきりさせましょうと言えば、一般常識からして止めてしかるべきだと言う。

一般常識とは誰が決めるのですか?と言えば私が決めますという。

そんな権限はないのではないですかというと、もういいです。やってくださいと言う。


これだけではなんの事か読まれている方は分からないと思います。


私がしている事は、この10年間子供達とやってきた事であり、器物を壊したり、公の秩序を乱す事でもありません。子供達の教育として遊ぶという事を真剣に取り組み、安全で怪我の無いものを、また他の利用者に迷惑をかからないように気を使いながら行った事です。

もちろん、施設利用の規約にも禁止されている事でもなく、ただしくは明記されていないものです。


それが何故、駄目なのか、根拠を聞いているだけなんですね。

それも10年間やってきた事です。

管理人が変るたびに、その判断で決められては、この10年間汗水流して、子供と向かい合って来た全てが、根拠なく否定される。そんな事はあってはなりませんし、そうした事にただハイと従う事を子供に見せるわけには行きません。


何も、絶対止めないという訳ではありません。

きちんと決められる人と現場と私達が何故それを続けるのかを話し合い、その上での決定なら、子供も納得できる事です。しかし、それをしようとしない。


こんな事でお偉いさんを呼ぶのはと言う。


で、私は大音声で「馬鹿者!!」と一喝を入れました。


その管理人さんは子供達に聞いてもよいですか?と言う。

どうぞという、その人はおかしいと思いませんか?と聞く。

子供は全員、NO。中にははっきりと私達がしている事は正しいと言う。


そう、その管理人さんが言っている事はお偉いさんを呼ぶまでもない小さな事なんです。

それでも私達が大切にして、子供と身体と心を通して、共に考えて来た道なんです。

その道をあやふやして、それをルールと呼んで、何が子供達に伝えられるしょうか。


私はこれがチャンスだと思ってます。


その人に貴方達が出来ないなら、私が直接、しかるべき人に話しましょう。

それは私の仕事ではありませんが、貴方がしないなら私がするしかありません。

その事を尽くし、初めて白黒はっきりさせましょう。

そこで決まった事は私も従います。

と申しました。


何を言うのですか?

というの、貴方達の悪口は言いません。事実と、どうすべきかを話すだけです。文章で出します。

いいですねという。


すると、私を馬鹿者と言ったことを謝罪しないのですかと言う。

私は貴方が指導中にあやふや状態で土足で稽古を踏みにじったので、怒ったのである。

もし、武士の世なら私はその場で貴方を斬ったでしょう。

それだけの事を貴方はしている。無礼であると申しました。


ここでは、誰が何処で何をという事を書きません。

書くべきではないからです。


しかし、なぜこんな事を書くかといえば、世の中にはこんな事がおおいからです。

それを御座なりにする事は今の世の中では限界なのです。

なにも政治家ばかりに頼る必要はないし、

世の中の矛盾を誰かの仕業にする必要はありません。


そして、ここで書いていることは私の目線であり、私の想いですから、必ずしも私が正しいわけではありません。

しかし、納得のいかない事には声を発し、正しいか正しくないかを、あるべき姿として判断できる環境を大切にする。そのルールを省かない。


それを大人がしなければ子供いくら礼儀を教えても響かないのであります。

上から押さえつければ丁寧な言葉も礼儀正しいような態度も子供はするでしょう。

しかし、世界に出て、この国を支えて、守って、その為の心を鍛える事になりません。


私はそう思います。

子供のを声をもっと聞いて、子供の心に働きかけて、たとえ、子供に言い続けている事が最終的に認められなくても、私の考えが間違っていると判断されても、そこまでしっかり見せる事を私はしたい、そう思います。